きぼう屋

生きているから生きている

復活・・・死と罪を超える

2010年04月05日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「復活・・・死と罪を超える」

イースターおめでとうございます。
本日、私たちは主の復活に出会い、
それを身体の真ん中に注いで頂き、
それを味わいます。
まただからこそ同時に、
実に私たちも復活します。

復活とは何か?
それははっきりと現われていなかった存在がはっきりと現われることです。
死を超えて、主が受難の神として啓示されることです。
死に覆い隠されていた私たちが、主の十字架ゆえに、死を包含しはっきりと生かされ現われることです。
罪ゆえにさばかれるべき私たちが、主の十字架にて赦されるゆえに、罪をはっきりと認識し、受容しつつ生かされ現われることです。

私は当教会の歴史資料にのこる言葉から、
当教会においては、死を超えることは丁寧にテーマとなってきているものの、
しかし、罪についてはテーマになりきれていないことを発見しています。

死は個人の問題でも語られます
(キリスト教会は死について本来、他者なる神と人との関係で語りますが、
一般的な死の語りが教会でもなされるケースが多いと思います)。

一方罪は、神と私、あなたと私、あなたたちとわたしたち、という関係性においてのみ語られます。
するとおそらく、
当教会では50年ほどの間に「個人」というテーマが豊かに分かち合われ、
その後の50年のテーマとして、「関係性」が分かち合われ始めているのではないかと考えています。

そこで私は今一度提案したく願います。

私たち教会は、愛、交わり、関係性の只中から、キリスト、信仰、行為、言葉を発見してみませんか。
それはつまり、
他者と向き合うほどに互いに迷惑をかけ、傷つけあうことになること、
およびその根源にある自分の知的、精神的、物質的財産を守るという本性があることを、
互いに丁寧に受けあい、だからこそ互いに罪として告白する出来事が起こされることだと思います。
そしてその告白は同時に復活に与ることになります。
そして愛が起こされます。

さて、しかしなにゆえに罪を告白できるのか、
それは本日の礼拝説教の主題となります。
礼拝にて分かち合えればと願います。

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というわけで、
主題は礼拝にて分かち合いました。

またいつかそのことも書くことが出来ればと思います