きぼう屋

生きているから生きている

日曜日に教会にて

2010年03月21日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「日曜日に教会にて」

本日は、
「わかっとりますがな」
と叱られるかもしれないことを書きます。

日曜日、

私たちは正面玄関から教会に入ると幸せです。
すると受付奉仕者と顔を合わせられます。

次に出席者名簿に記名します。
キリストと共に礼拝をささげた記録となります。

そして週報棚のある人は、
そこに入っている週報と他の書類を取って目を通しますと、
その行為がすでにキリスト家族として福音を分かち合うこととなります。

さらに、廊下掲示板に目を通します。
同じくキリスト家族の分かち合いです。

さて礼拝堂に入ったなら、
互いに顔を見つめあってみましょう。
他者の顔を見つめることが、同時にキリストの顔を見つめることになり、
他者に見つめられることが、キリストに見つめられることになります。

そこでは豊かな優れた緊張感が起こります。

主の日の礼拝は、

この緊張感が十字架のキリストから生まれていることを知らせます。
この緊張感が十字架へと私たちを向かわせます。
十字架のキリストの下で一週間の罪を告白することへと導きます。

そして新しい命と、新たな一週間の生活を
赦されつつ歩むことができることを、
決定的に得ます。

そして新しい命とされた一人ひとりは、
他者と出会った緊張感が、
同時に
優れた愛となり、豊かに他者を受けることとなり、共に歩む喜びに満たされることとなるという
大きな変化を経験します。

つまりキリストの体を、
他者と顔を合わす中で
主より頂きます。

もし緊張のゆえに
他者の顔を見ることをせず、礼拝堂で神のみを見る、
という行為を選ぶとき、
それは実は、
神の顔ではなく、自分の顔を見ることになっています。

しかしご安心を。

そういう時もキリストは私たちの顔を覗き込んでくれます。
それゆえ、やはり愛へと導かれます。

そしてこれを得る上に大事なのは、
余裕を持って礼拝に出る!ことです。

欠席も遅刻も自由という風潮がもしあるならば、
それは大きな不幸です。

この自由さで愛が覆い隠されるより、
他者と、キリストに出会うために、覚悟を決めて礼拝を第一とし、
愛に満たされることが本来的にうれしいことです。

以上、日曜日に教会で起こること、でした。