きぼう屋

生きているから生きている

受難の神こそ神

2010年03月30日 | 教会のこと
今週(受難週)の週報巻頭言です。

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「受難の神こそ神」

次週はイースター(復活祭)です。
キリスト教会の中心の祭です。

しかし、それ以上にキリスト教会の内容的な中心があります。

それは主イエス・キリストの十字架の苦難です。
私たちの神は、
全時代全地域の全ての交わりといのちの苦難を
身代わりとなって引き受け、実際に苦しみ続けます。

この受難の神が救い主であり、癒し主であり、創造主です。

そしてイースターとは、受難が去りスッキリした姿で復活する出来事ではありません。
イースターは、受難の神が私たちにわかる形で啓示された出来事です。

ですから、
復活された主イエスの傷口は消えず、
弟子たちは十字架で釘打たれた傷を確認して、
それが自分たちの神であることを知ったのです。

つまり受難の神こそが神であることを知ったのでした。

私たちの救いは受難の神のその苦難の中から生まれます。

私たちは救われてスッキリしません。
私たちは救われた者ゆえに、
私の苦難を主が引き受け、それゆえ猛烈に苦しまれている姿を、目の当たりにします。
だから私たちは、救いを感謝するにも、
戸惑いつつ、言葉を詰まらせつつ、感謝するしかできませんし、
むしろ、主が身代わりになっているという理不尽さの前に沈黙するしかありません。
私たちは、この神の前での沈黙を通して救いを知ります。

私たちの癒しも同様です。
痛みが消えることが癒しではありません。
主がすべてを引き受け、共に痛まれているという事実の中で、
私たちも痛みつつ、しかし同時に癒されていることを経験します。

いのちの創造も主の受難の中にあります。
主は私たちが日々新しいいのちを生きるたびに産みの苦しみを苦しまれます。
いのちも、交わり(関係性)も、主の産みの苦しみからのみ形成されます。
そして私たちが各々生きるとするならば、
その主の苦しみを丁寧に知ることこそが生きることであり、
私たちが聖霊によるキリストの体として交わりに生きるならば、
交わりの只中の苦しみを主が背負うことを丁寧に知ることこそが共に生きることです。

教会の中心たる受難週を共に歩みます。