きぼう屋

生きているから生きている

死に勝っている

2010年03月15日 | 「生きる」こと
3週分の週報巻頭言です。

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「死に勝っている」 2月28日巻頭言

日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会が活動40年を記念して本を発行しました。
この本から、委員会の働きが、
福音に根ざす社会活動を超えて、日本バプテスト連盟全体の宣教と教会形成の核を作っていることがわかります。

またヤスクニ問題を取り扱うグループは、
70年代の運動の盛んな時期に、キリスト教各派から誕生しましたが、
その働きが若手に継承され、存続し、情熱を持って深められているのはバプテスト連盟のみと言って過言ではありません。

面白いのは、
ヤスクニ問題から多くのことを考え続けたバプテストは、
そういう教会を中心に教勢が伸び、
半減する他教派と異なり、今でも伸びを示すことです。
実にヤスクニ問題と向き合うことが伝道となるわけです。

ではバプテストは何が違っていたのか。

わたしは二つのことを歴史から見ます。

ひとつめは、
多くの教派が政治運動としてヤスクニ問題と向き合ったのに対し、
バプテストは、イエスは主なり!という信仰告白運動として向き合ったことです。
そしてこの委員会の取り組みを土台として、
1979年のバプテスト連盟信仰宣言や2002年の平和宣言が生まれたと言えます。

ふたつめは、
死と向き合ったことがあげられます。
バプテストはヤスクニ問題を考える中で、
死、死者、弔いという問題を、
キリスト教会が靖国神社のようにテーマとしてこなかったことを反省しました。
そしてそれを10年かけて学びました。

今、若者が国家やヤスクニに惹かれるのは、
死という不安を持つからです。

私の世代よりも、
今の十代、二十代の若者は、
安定した将来が見えにくく、
来年も平安に生きているかどうかという確信は持てずにいます。

それは同時に死が身近に迫ることです。

そこで、
彼らは国家の政策によって死から遠ざかることを期待しますし、
また死そのものに関しても、
自分の死に大きな意味を付けてくれて、無駄な死ではない、
と語るヤスクニに期待するのだと思います。

ならばキリスト教会はそこで何を語るのか。
それは次週のこの場所で考えたいと思います。


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「死に勝っている その弐」 3月7日巻頭言

我々は死に支配されています。
だれもが最終的に迎えるしかないという死以上に
強い支配力を持つものはありません。

そして国家とは、
国民を死から遠ざけるための機関です。
言い換えると、安全と健康を維持する機関です。
そしてこれは正しいことです。
しかし、
地球規模で丁寧に見るとき、
食料、水、ワクチンなどが、富める国に独占されていることを私たちは知らねばなりません。

またこの事実から私たちは、
安全と健康を求める姿勢が
もはや度を越えていること、
必要分以上であること、
もはや安全と健康を偶像化し信仰していることを認めざるを得ません。

それは同時に、
死を必要以上に恐れているということでもあります。

だから、
死から私たちを遠ざける国と、
死に意味づけをする靖国神社や国立追悼施設は、
必要以上に信仰されます。

繰り返しますが、
それは、私たちが死に支配されているからです。

しかし!キリスト者はそこから解放されています。
死ではなく、新しい命に支配されていています。
すでに死に打ち勝っていると宣言されたキリストに支配されています。

先週、E兄のバプテスマがありました。
キリスト者はバプテスマにより新しい命を得ます。
しかし同時に、バプテスマにより死を受けます。

つまり、
キリスト者は、パウロが言うように、
繰り返し死んでいる者として生きています。
死に支配されながらの死ぬ時までという制限付の生ではなく、
すでに死に打ち勝っているからこそ、
死を受容している永遠の生という、
まさに新しい命を生きるのがキリスト者です。

だからキリスト者は、
国家もヤスクニも信仰する必要がなく、

端的にキリストを信じます。

死に支配されることがまったく起こらないままに、
キリストに従います。

同じく国家に支配されることもありません。

また昨今は、
安全と健康を自分でお金を出して買う時代ですが、
キリスト者はお金を信仰することもしません。

私たちはすでに死に打ち勝っています。
だから安心して共に主の新しい命を生きます。
キリストこそが命です。


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「死に勝っている その参」 3月14日巻頭言

この世で最も強い力は死です。
しかし、キリストが死に既に勝っている以上、
私たちも死に勝っています。

私たちは、
バプテスマを受けた時点で、すでに死を受け、新しい命へと変換されました。

それまでの命と、新しい命との最たる違いは、
死の力に支配されている命であるか、死を既に受容した命であるか、です。

そして死を受容しつつ生きる新しい命を得たキリスト者は、
同時に、罪にも支配されません。

パウロが言うように、「罪の報酬は死」です。
私たちは必ず死ぬ者であるからして、必ず罪を犯す者であり、必ずその罪を神によりさばかれる者です。

しかし!ここで奇跡が起こります。
私たちが自らの罪ゆえにさばかれねばならないのに、
キリストが身代わりとなって十字架でさばかれることが、
今も繰り返し起こされます。

そして、ゆえに、私たちは、罪人であるにもかかわらず、赦され、歩み続けることができます。
つまり、私たちは、赦された罪人として歩みます。
罪を犯すことのない聖人ではありません。
キリスト者とは、死と同じく、罪人であることをも受容する者です。

だから、わたしたちは、
自分の正しさ、潔白さ、美しさ、清さ、賢さ、強さなどに、こだわる必要はなくなります。
これらへのこだわりは、実は罪に支配されているからこそ起こります。
これらは死から遠ざかることを目指したように、罪のさばきから遠ざかることを目指すゆえの自己認識として現われます。

私たちは死に勝ち、
同時にキリストによるさばきの引き受けにより
罪人のまま神に赦されています。

だから、
私たちは既に赦され救われているからこそ、
ひとつひとつの罪を丁寧に告白し、
誤り、醜さ、汚さ、単純さ、弱さなどを隠さずに、
引き受けつつ歩むことができます。

私たちは罪人です。

弱いです。誤りだらけです。

それ以外の者にはなれません。

しかし!キリストの引き受けにより、
神からは、そういう者として赦されています。

この奇跡こそが私たちを幸せに、健やかに生かします。

この信仰が大事です。

だから!常に!私たちには、十字架のキリスト!が必要!です。

そして!常に!私たちには、十字架のキリスト!が伴います!。

インマヌエル!神われらと共にいます!

アーメン
アーメン