きぼう屋

生きているから生きている

教会家族に感謝!

2010年03月08日 | 教会のこと
昨日の礼拝は
わたしの経験するなかでは
最も多い欠席届をいただいた礼拝でした

だから
週報の祈りのきずな欄は
いつものスペースでは足りずに
もう半ページほど増やすことになりました

合計で15名の欠席届


これはうれしいことです

礼拝に出ても出なくてもいい

礼拝に出たほうがいいけど勝手に休んでもいい

礼拝に出たいけど休まざるを得ないときは連絡せず休む

礼拝に出たいけど出られないから祈って欲しいし連絡する


よくわかるかたちで変化してきているからです


しかも

欠席届けを出しつつ

なんとか礼拝に出られるために
土曜日に仕事を詰め込んで終わらせた仲間

仕事が終わって午後教会に飛び込んできて
残っていた仲間とプチ礼拝を持てた仲間

仕事が終わって夜中に飛び込んできて
私と聖書を読んだ仲間


おります

そうなんですなあ
キリストの体ですから・・・



これだけ欠席届があって
実際にたくさんお休みだったけれども
それでも昨年度の平均出席者よりもたくさん

キリストはウチの教会で何をされようとしているのでしょう?

耳を澄まし
目を凝らし
心を研ぎ澄まし

みこころを受けていきたいと願うばかりです




この場所で日曜日に起こっているうれしいことを
これまで書いてきているのですが

このかん
なかなか書けません

というのは

思わず涙がでてしまうような
魂揺さぶる出来事が
毎週毎週
ものすごいたくん起こっているから
書ききれないし選びきれないし
言葉にもできないし
どうしようもないわけです

このかん
教派を問わず
他の教会のメンバーが
京都旅行の際に
当教会の礼拝に参加されると

ほぼ全員が

感動した!
ステキな教会!
どうしたらこうなるの?

と言ってくれています

別に
賛美が元気なわけでもないし
雰囲気が荘厳でもないし
説教がうまいわけでもないし
プログラム進行も整っているわけではありませんし


でも

なんともいえない
体の芯に響く
何かが

それも
ひとつ!
とされているという出来事としての何かが

礼拝にあります


なんだろう!?

よくある礼拝と違うのは

とても騒がしいことです

それは
あらゆる人がいるから騒がしいです

赤ん坊に幼児に小学生に若人
高齢者
手話を用いる人
車椅子の人
うつの人
自閉症の人
大きな病気の人

それぞれ
まったく行動言動のスピードとトーンが違います
でも
なんらかの雰囲気にスピードとトーンをあわせるということは
ウチの礼拝の場合必要ありません

みんなが自分のスピードとトーンで礼拝します

だから
がちゃがちゃになるし
騒がしくなります

でも

これが大事です


そして礼拝を素人でよってたかって作ります

司会
奏楽
手話通訳
OHP
子どもメッセージ
献金当番
などなど

めいめい丁寧に祈り準備し
礼拝前にみんなで祈り
礼拝を担いつくります

そのときに
進行がきれいに見えるように
格好つけることは
ウチの礼拝では厳禁です

進行が大事なのではなくて
奉仕者が
キリストを証することが大事なわけです


しばらく続いていたバプテスマクラスが落ち着いたので
ちょっと待ってもらっていた転入会クラスを
ぼちぼち始めることができます

3名の仲間がおられます


ウチは
新しい仲間が与えられたら
その方が中心となります

新しい仲間が
教会から何かを受けるのではなく

教会全体が
新しい仲間との出会いから
さらなる深みを獲得します

ボンヘッファーが言うように
キリストの受肉は
教会の交わりです

バルトが言うように
キリストの出来事は
共同性です

ユンゲルの言うように
新しい命とは
関係性です


そうそう

ウチの教会は
すでにみんながアイデアをどんどん出すし
みんなが主体的に担うし
みんなが責任も担うので

わたしは牧師の仕事に集中できるようになってきました

これもすごいことだなあと思っています

つまり
教会を担うみんなの十字架を一緒に担う
という役割に徹することができるようになりました

牧師だけが十字架を担う
なんてことがあったら
みんなが

だめです!

って言ってくれますし・・・

助かります

うれしいです

キリストがいます

わたしたちはキリストの体です


京都教会のみなさん

ほんとうにありがとう!!