きぼう屋

生きているから生きている

神も苦しんでくれている

2010年03月23日 | 教会のこと
本日は石居正己先生の告別式

ルーテルの神学者であり牧師でありました

わたしは直接お会いしたことはありませんが
しかし
当教会の前任牧師のお兄様であること
またそのゆえに当教会もバプテストの医療団もお世話になったことがあること
などから
告別式に参加させていただきました

ただ著書は読ませていただいております
そして神学的に苦悩されていることが読み取れるので
とても面白く読ませていただいています

それは
牧師として身体で受ける事柄と
小難しい本たちから受ける観念を
統合する苦悩です

ルターの研究家ですので
基本的には
20世紀の神学者たちと異なり
形而上的な言葉が多く出てきます

わたしは
ルターの大きな功績は
形而上的言語による神理解が語られる中で
なぜか不思議と
十字架に関しては形而上的言語を断念しているということだと思っています

石居正己先生は
十字架に関しては
ボンヘッファーから学び
そこからルターを解釈しているだろうと著書から勝手に思っています


それが石居先生を石居先生たらしめているのだと思っています
先生の献身性
あるいは献身的人格とでも申しましょうか
そういうものとなっているのだろうと思っています

つまり
十字架を中心とした生涯だったのだろうと勝手に思ってました


しかし
本日の告別式では
説教でも有名な学者たちの弔辞でも
不思議と十字架の神学は語られず
すべて形而上神学でした

だから主の弟子の死における主の受苦も語られず
死が神の計画である
という結論だけが明確になりました

形而上神学の特徴
つまり
神が苦しむことがない
というものがそのまま出ておりました

石居先生の告別式だっただけに
先生の生涯の葛藤からするなら
少し残念な気がしましたが

しかし
私と違い
説教や弔辞を語られた先生方は
石居先生との深い交わりゆえの
深い悲しみの中にあり
実は石居先生の死における言葉を発見し構築するのは
これからなのだろうとも
式のあたたかさから思いました


もう一度先生の本を読んでみよう
と思って書斎で探すものの
なぜか見つかりません

一時間くらい探しました
そしてやっと思い出しました
まとめて貸していました
でも貸した方はもう遠くに行ってしまっております

というわけで
あらためて3冊ほど注文しました

牧師という現場を持っている神学者の言葉は
わたしみたいなタイプにはとても大事です
あらためて学ばせていただきたいと思います

ご家族を覚えて祈りつつ