きぼう屋

生きているから生きている

ゆるされて

2009年06月07日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「ゆるされて生きる」

まず宣伝をしますが、おゆるしください。
日本バプテスト連盟が「平和に関する信仰的宣言」を告白していますが、
その宣言にかんする「平和のいましめ」「恵みのいましめ」に続く「時のいましめ」が発行されました。
これは平和宣言から生まれた説教集です。
わたしの説教も掲載されています。
一冊500円。私の手元に50冊あります。
ぜひお買い求めください。
残ったら大家族で経済事情の厳しい私が買い取らねばならないので、
ぜひ・・・(苦笑)

その平和に関する信仰的宣言は、
先週のペンテコステ青年主催礼拝の説教にて
説教者のN姉が話されたバルメン宣言と
本質を同じくします。

それらの宣言の特徴は、
キリストを人間の心から身体全体へ、宇宙全体へ解放すること、
ゆえに自分の心が痛まなくとも、世界のあちこちで起こる苦痛をキリストの十字架として知ること、
にあります。

そして
その苦痛の解放と、
苦痛を与える神以外の諸力への抵抗、
またその諸力を悔い改めへ導くこと、
さらにその諸力にかかわるわたしたち一人ひとりの罪の認識と告白を
宣言の中心とします。

そしてここまで突詰められると、
宣言はおのずとキリストに集中し、
キリストによってしか起こらない罪人の赦しと罪のさばき、
全宇宙の復活を希望するものとなります。

逆に様々な信仰のことばについて、
それらがキリスト集中に至っているか、
自分の心の問題で終わっていないか、
世界の苦痛を知ることができているか、
という検証も、
平和宣言から起こされます。

すると、罪のさばきの欠けた信仰のことばが多いことも発見できます。

私たちの罪は神にさばいていただけます。
そしてずっと傷跡として残ります。

例えば友人を傷つけたとき、
その友人から傷つけた出来事をなかったことにしてもらうのと、
その傷を友人が背負いながらも、傷つけた私を愛してくれるというのでは、
どちらが本来の深い出来事となるでしょう。
それは後者です。

これが神は罪をさばいてくれて、
そして罪人であるわたしを赦してくれるということです。

私たちはこうしてゆるされて生きます。