きぼう屋

生きているから生きている

キリスト「としての」

2009年06月06日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。
といいましても
今週って今日までありまして・・・
掲載するのを忘れておりました・・・

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「キリストとしての」


本日はペンテコステです。
キリストの復活から50日経過した日です。

それは、
キリストが聖霊としてすべての被造物たちを、
それこそキリストの体として、
さらに言うならば、
キリストの働きを具体的に担うことのゆるされた交わりとして、
つなげる出来事が起こる日です。

だか本質的な意味での教会が起こされるという日です。

さて、私たちが「ひとつとされる」ということは何を意味するのでしょう?

それは個が打ち消され、所属する組織の色にみんなが染まるということでしょうか。

いいえ。
それは質の低い国家や会社などでは起これど、ペンテコステには関係ありません。

みんなが同じ色に染まるのは、
最終的に自分の所属するグループの利益をみんなの目的としているからです。
ここでは、自分は救われて相手は救われない、ということが起こります。

ならばペンテコステで知る「ひとつにされる」こととは何でしょう?
それは自分以上に相手を救うことを決意と共に選び取り、
宣言し行動することを目的とするゆえに「ひとつとされる」交わりです。
そこでは
自分がキリストに救われることを目的とするのではなく、キリストに既に救われていることを知らされ、
ゆえにキリストと共に、キリストの体として、つまり個々人がキリストの一部として、
他者の救いを目的とすることが起こります。

誰の救いが目的かということと、
自分がすでに救われているということを知るか否かが、
交わりが悪魔的か聖霊によるものかの別れ道です。

そういう意味では、教会も確認を怠るとすぐに誤りますし、
その確認とは礼拝における毎週の交わりと「ひとつ」の経験であることは間違いありません。

そして本日は青年会がペンテコステ礼拝のすべてを引き受けてくれます。
礼拝説教、子どもメッセージ、司会、献金当番、受付、OHP当番、讃美歌選択など、
みんなの救いのために、キリストの一部として行為します。
これはそのままペンテコステの業です。
神に心から感謝します。

わたしたちは
ペンテコステにて
今一度
そしてさらに
真の教会とされます。

アーメン