きぼう屋

生きているから生きている

結び合わされて

2009年06月02日 | 「生きる」こと
昨日はホームレス支援炊き出し

わきあいあいなわけですが
そのなかで
ふたりの方から命の看取りを依頼されました

依頼するときに
ぼくを呼ぶ声からして
すでに覚悟を決めた決断を知ることができますし
一歩一歩近づく歩みも
わたしを見る目も
そして50cmくらいの距離となり
静かに
間接的な言葉で語る
その声のトーンというか
のどのふるえというか
辞書的な意味ではないところのそこで起こされている言葉というか
それらはお互いの神経を一気に結び合わせるものであることを
昨日も経験しました

だから
こんなことを打ち込みながら涙が出るのです

命って何でしょう?


夜は家族と蛍を見に行きました
ほたるが体のまわりを飛んでいくのは感動です
その静かな空間と時間のすべての瞬間に
身体が丁寧に反応するという不思議な経験をします

こういう丁寧な反応は子どもでもできることをも発見しました

そして蛍はとなりのおばさんの肩にとまりました

美しい・・・



その帰りがけにコンビニでアイスクリームでも食べようと思ってみんなで自転車をこいでいたら
携帯にメールが入りました
「今晩お暇?」
あらら
たぶん今日本で一番忙しい友人牧師からのメールでした
「お暇よ」
と返事をしましたら
関西で数本の礼拝説教と講演があるために
新幹線で京都に向かっているとのこと

この一ヶ月にふたつの会議で合計4日間も一緒だったのですが
しかしまだまだいろいろと議論を深めたいこともありますし
互いに互いを牧会するということでもあるので
よろこんで京都駅に行きまして
一緒に飲みました

面白かった議論としては
もはや引用はやめよう!というものがありました
偉大なる先輩方の言葉も
私が読んで使用してそのことば生きたなら
すでに私の言葉だし
どうどうと私の言葉として構成しなおして使おう!
というものです

あとは
一流の学者よりも
学者としては二流三流でも一流の教育者が必要だ
という議論も面白かったです
これはただ単純な手段としていっているのではなくて
歴史を丁寧に学ぶなかで言っていくという
まさに議論として語り合いました

どの分野でもそうなんではないでしょうか・・・


なんの議論をするにも
彼との議論だと
互いにキリストを主語とするところからはずれないので
とても爽快だし
そもそも議論が深まるからうれしいです

たいがい牧師といっても
やすっぽい心理学とか
単純なイメージとか
ただのコンプレックスによるものとか
ストレス発散
というところからの言葉が中心をしめることが多いのですが

そういうかけらもない対話になるのが
なにしろ嬉しい!!


本日は
もう寝ます

だから明日はすっきりになる予定です

ではおやすみなさい