きぼう屋

生きているから生きている

キリスト「としての」 その弐

2009年06月08日 | 教会のこと
キリスト「としての」
というタイトルの意味する事柄は何か?

というするどい問いをいただきました

感謝です

つまり
キリストはキリストでしかなく
キリスト「としての」
のあとに来るものは
当然
キリスト
以外にはありえない!!!!

というのは神学の基本原理であり
その基本原理を単純に当てはめることで
キリスト教会はかなりの確立で過ちから解放されるのは事実ですが

しかし
今回あえて
「としての」
というテーマを出していこうと思っているところです。

しかし
「としての」
のあとは空欄のままであり
空欄でなくてはなりません

このタイトルの週報巻頭言を呼んでいただければわかるように
そこには
キリストが教会の交わりとなる
ことが書かれています

キリストは教会の交わりです
これはボンヘッファーが明確にし
バルトも追随しているところです

しかし
それは絶対に
教会の交わりはキリストである
とはなりません!!!

この順序は絶対にひっくりかえりません!!

しかしわたしは
絶対にひっくり返らないけれども
そのひっくりかえらない中で
しかしさらに教会の交わりの中身を表そうとするときに
「としての」
ということばを選びました

だから
キリスト「としての」
のあとは空欄でないとなりません
そこに
教会
を入れることはできません

ちょっと高度な論理になっていると思いますが
ことばというのは
それくらい複雑な論理であるわけです




キリストは教会である
としっかり言いつつ
教会はキリストである
と言うことに決定的に注意するということを

はらわたで知るに至ったならば
それは神学、あるいは信仰の半分を知ったということになるだろうと思います

しかしこれがはらわたでわからないならば
たとえ聖書のすべてを原文で暗記し
すべての解釈をすることのできる
聖書研究始まって以来の天才であったとしても
神学、あるいは信仰の半分はいつまでもわからない
ということになります


というむずかしいことを書いて
本日はおしまい

ちなみに
今週の礼拝も祝されました
感謝感謝