きぼう屋

生きているから生きている

殺してはならない

2009年05月04日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「殺してはならない」

本日は憲法記念日です。
私たちは、特に戦争放棄を謳う憲法9条をこの日に覚えます。
しかもそれは信仰者として覚えます。
十戒が語る「殺してはならない」という戒めが、
抽象的ではなく、
国の憲法として具体的に起こされているからこそ覚えます。
これは世界的に見て、歴史的に見て、極めて奇跡です。

「殺してはならない」は、同時に生命、人格、交わりが守られることです。

「自分のことは自分でする」という標語を誰もが聞いたことがあるし、これを大切にもします。
現実問題、これ抜きに生きられません。

でもこの標語は本当に本来の人間性を語るでしょうか。
つまり聖書に書かれているでしょうか?
主イエスがそう生きたでしょうか。
主の弟子はどうでしょう?
旧約聖書に描かれる人々はどうでしょう?
実は「自分のことを自分で」という生き様は出てこないのです。

逆に「自分のことは他人で 他人のことは自分で」という事柄は山ほどあります。
主イエスも弟子たちもそのように生きています。

ということは、「自分のことは自分で」は、この数十年に流行している標語であることが分かります。
また「自分のことは他人が 他人のことは自分が」を依存関係として排除するのも数十年の流行で、
本来の人間性や真理は含まれていないと思います。

さて、そこでもし、「自分のことは他人が」を実感できない場合は、
最も大切な事柄が見えないときかもしれません。
それは信仰です。

つまり
「自分のことは主イエスがすべて引き受けてくれている」、
「自分のことは主イエスが愛してくれている」、
さらに
「自分の罪による死までも引き受けておられる」
という事柄の前に驚き沈黙し、
その実感が与えられるということを忘れてしまっているときだと思います。

そして忘れているときは不安が襲います。
不安に襲われると、
他人を信用できなくなり、
「自分のことは自分でする」ことに躍起になりすぎるばかりに、
それが変形して
「自分のことの領域は徹底防御する」というかたちで閉じこもるようになるのが
私たちの経験からわかるところの
私たちのどうしようもない性質だと思います。

しかし主イエスは私たちひとりひとりを、あなたを、今も引き受けているから、
堂々と安心しましょう。

そして憲法9条は、
「他者の命を自分が守る」という法律であり、
逆に「自分の命は誰が守ってくれるの?」ということにはなんと答えてくれません。
だからこそとても不思議だけれども
実に信仰的です。

自分の命はキリストが守ります。
私たちはここに賭けます。

これが世ではなく聖書の言う
「殺してはならない」ということです。

アァメン