きぼう屋

生きているから生きている

キリスト運動

2009年05月11日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「キリスト運動」

政治の腐敗が叫ばれて久しいわけですが
政治の運動とはなんでしょうか。
おそらくひとつには、政党運動があると思います。
自分の理念を語る政党が政権をとるための運動です。
そして現在の政治の腐敗は、おそらく政治運動のほとんどがこの政党運動になっていることによると思います。
ならば純粋な政治運動とはなんでしょうか。
それは、自らの目指す社会実現のために手段を丁寧に、そして決断的に選ぶという運動だと思います。

さて、ならば政教分離とは何を意味するのでしょうか。
まず政党運動と宗教運動を分離せねばならないということがありましょう。
そして同時に、自分たちの目指す社会の実現のために手段を見つけていくという方法とも、
宗教運動は分離せねばならない、ということではないでしょうか。

そしてキリスト教会は聖書から学ぶならば政治運動をしません。
イエスは政治運動をしていません。
イエスは目的に対する手段を行うのではなく、ただただ端的に愛しかかわることをしたのです。
また特に私たちバプテストは政教分離を語り、政治運動を拒否します。
繰り返しますが、政治とは、自分たちの目標のため手段をうまく選ぶことです。
それが強行的なのは昨今好まれず、誰とも付き合いながら、しかし自分の目標をしたたかに獲得するという政治が流行しています。
でも教会は本来そういう運動をしません。
教会はただキリストの十字架により赦された者として、愛と和解に生きることを繰り返します。
端的にいうなら、キリスト教会の運動は、他者に具体的にかかわる愛そのものです。

私はこの間、平和憲法を守る運動、戦争に反対する運動をしてきました。
しかし教会で何度となく「よくわからないんだよなあ」とこぼしてしまっているように、
これらの運動の中で、端的に他者にかかわる運動があまりに少ないことにずっと悩んでいます。
平和という、生命および生命と生命との関係の事柄なのに、
やることは極めて政治的になっていきます。

また一方で、
今の日本社会では平和運動をする者に「左翼」というレッテルを貼る行動がついてきますし、
逆にナショナリズムの高揚を語ると「右翼」というレッテルが貼られますが、
そういう行動はなによりも政治的であり、他者とかかわることが失われています。

そしてキリスト教世界でも、
他者とかかわるというキリスト運動を共にしたいと思っても、
悲しいかな、
それを政治的に受け入れたり拒否したりすることが起こります。

そして昨今わたしは思うようになりました。
人間の運動の限界は政治であると。
つまり最終的には自分の目的、特に生命維持という目的のためにうまいこと生きるのが人間のできる限界だと。

ならば自分の目的や生命維持を抜きにして、
ただただ他者にかかわることを繰り返すキリスト運動は、
なにゆえに起こるのでしょうか?

それは、まさに人間の限界を超えたキリストゆえの運動であり、
その十字架の愛と赦しと和解を信じ頂く中でこそ起こる運動なのだと思います。

となると、
政教分離は、他者にかかわる運動を選び取るという原則を語るのではないでしょうか。
キリストを信じる私たちは、
キリストにより政治運動から解放され、
キリスト運動そのものを、
つまり端的に他者にかかわる運動を頂きたく願います。

このふたつの運動の分離は、
世界と生命の救いにとって相当に大切なことだと思います。


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という巻頭言を書きましたが
これは
マザーテレサの運動って
キリスト運動だなあ
と思いながら書いたのでした