きぼう屋

生きているから生きている

マニュアル☆京都のことばその弐☆証☆準備

2009年05月18日 | 教会のこと
昨日の礼拝説教は
豚インフルエンザ感染に対する教会共同体としての対策
から始めました

鳥インフルエンザ発生時に
教会としての対策マニュアルを用意しているので
それに準拠するという

結局は政府と同じことを話したわけです



来週は
教会でマスクを配ることになるかもしれません
そうなったらみんなでマスクをして礼拝しましょう

ってなわけですが

わたしは実は大のマニュアル嫌いでして
教会運営におけるマニュアルというものをあえて作っていませんし
そういう質問があっても
めいめいの状況において丁寧に目的を見極めてなすべき行為を選ぶ
としか言いません

しかし

人が生きるか死ぬかということが絡んでくる時に
(今回のインフルエンザの毒性の強弱という問題は抜きにして)
そこでできるだけ助かるための行為の精度をあげるためのマニュアルは
必要だと思います

なぜか??

人は
生きる死ぬというときには
自分を守るので精一杯で
他人を助けることはできないから

そこはマニュアルで
共同体全体で助かる
というものを確認し

個人の生命維持
という本能を超えるべきだと思っているわけです


教会は(も)今回のようなケースや
またたとえば大地震発生時などに
有効なマニュアルを
社会的責任と神と生命への責任として
用意せねばならないと考えています


さて話はまったくかわりますが
説教にて
ひとつまえのこのブログの記事で書いたような
京都のことば
について話しました

びっくりするほどの共鳴を得ました

しかし
よくよく考えるならば
当教会は歴史的に根っからの京都人は少なく
ほかの地域から京都に住むようになった人が多いわけで

たとえばもう半世紀京都で生活している人でも
いやそういう人だからこそかもしれないけれども
共感したのだろうと思います


しかしひとつ

しまったあ

と思っているのは

京都人ではない人が多いところでこういう話がでると

京都のことばが否定的に受け止められる可能性が高い
ということです


だからここにちょっと書いておきます

京都のことばは都市社会における地球全体でもっとも最先端の洗練されたことば
だということです
(ことばと表現する中には共同体の身体性まで含みます)

そして
世界全体が都市化する中で
実はどんどん京都のことばに他のことばが近づいている
と考えています


わたしが十代のころ
これからは欧米のように個人主義があたりまえとなり
自分の意見をハッキリといって
イエス・ノーをはっきりさせて
互いに違いは違いとして受け入れつつ
生きることが重要だ

と言われてきました

そしてそれが最先端の生き方だと

でもそれは間違いです

そういう生き方をもってきた欧米文化は

実は田舎の欧米文化だと思います

都市部で生まれ育った欧米人は本音と建前をもっていたりします


つまり個人主義は
最終的に自分の意見は言わず
できるだけ少ないことばで
お互いに建前で生きることができる
ということばを作り出すわけです


都市社会となり歴史を重ねると
それは京都のことばに近づくのだろうと思います

欧米であっても
都市社会とそうでない社会があるわけです



じゃあ東京の下町は?
というと
これは都市社会になることに抵抗するゆえの
おせっかいなことばの存続なのだと思います


というわけで

これから
ますます孤独、孤立が問題とされるなかで

その解決の最先端には京都のことばがあることが無意識にの知られるでしょうし
選び取られるだろうと思います


しかし

その最先端の京都よりも
さらに最先端のことを

主イエスは述べている

という説教をしたわけでございます


京都の否定ではなくて
神以外のことばを
神のことばが超える
という話なわけです


これはもう少し一緒に考えていきましょう


さて昨日は

2週前に証ができなかったSくんが
感動的な証をしてくれました
あの2週間前の出来事のおかげで
昨日の証が教会における風となりました

彼の証が終わった後に自然に起こったおおきな拍手は
風がさせたのだろうと思いました


本日の午前は
わたし
休んでいます

ずっとストレッチをしております


すこしづつ体がほぐれてきました
今週一週間も
仲間のために祈り
聖書と向き合い
歩みたく願います


それにこんどの日曜日は
特別礼拝!!

講師の寺園先生と
新たにこられる仲間のために
祈って祈って祈ります