きぼう屋

生きているから生きている

変わりたいのです

2009年04月09日 | 「生きる」こと
もっと変わりたいなあ
と思っているこのごろです

京都で丸10年過ごし
それは同時に牧師職を10年したということでもあって
そういう
数字だけのことではあるけれども
区切りをむかえて

変わりたいなあ
と思っているわけです

この間ずっと妻に
おれ変わりたいねんなあ
と漏らしております

妻は正直に
よくわからんねえ
と言ってくれつつ
変われるために応援するわ
と励ましてくれるので
助かってます


何が変わりたいのかというと

自分自身が変わりたいということでありまして・・・

この10年間
わたしを身近に見てきた教会の仲間たちをはじめ友人たちは
この10年でもう結構変わったよ
と言うだろうと思いますが

しかしもっともっと変わりたいなあと思っています

10年前を振り返ると
よくもわるくも原理的で
よくもわるくも正攻法で
よくもわるくも直接的であったなあ
と思います


じゃあ今はどうなったかというと
実は
原理を崩していないし
正攻法でやっているし
直接的なんだけれども

でも
それをさらに動じず余裕をもってやることができるようなっている
と思います

すると
10年前はうまいこと
わからなかったり
つながらなかったり
伝えられなかったりしたことが
スムーズに運ぶようになってきました

しかししかし

でももっと変わりたい!!

もっともっと動じず
どうどうと恥かいて
どうどうと傷ついて
どうどうと叫んで
どうどうと泣いて
どうどうと受け入れて
どうどうとかかわって
どうどうと生きたい

と思っています


具体的には
さらに間接的なうわさを信じない
さらに裏を読まない
さらに因果関係を信じない
さらに自分の気分を信じない
さらに自分の答えを求めない
となると必然的に
人に原因を押し付けない
人の悪口を言わない
人を怒らない
ともなるだろうと願っております

ただただ
具体的なあのひとこのひとのため

直接うごく

それは
あのひとこのひとの重荷になっていることを
できるかぎり引き受けて
それをそのまま主にあずけて
すなわち
主にあって
自分がかかわっていてもかかわっていなくても
その重荷の責任ゆえに謝罪し
悔い改め
そこから歩みだす

という人間にもっともっと変わりたいとねがっております


祈りつつ覚悟をいただいて
次の10年のスタートを切りたいと思います

だからみなさん
わたしを見て変わっていないと思ったときは
変わってないよー
と教えてくださいませ

なにとぞよろしくお願いします