きぼう屋

生きているから生きている

映画「おっぱいバレー」見ました。。

2009年04月29日 | 「生きる」こと
世間ではゴールデンウィークということで
しかも不景気のために休みが長い
なんてことも報道されております

こういうとき
この期間ストップしている工場で働いている派遣社員は
ただただ無視されるのでしょうか・・・

また例えば
チェーン方式の飲食店でバイトしなければ家族を支えることができないお母さんたちは
学生が帰省などでいなくなるから余計に
休みなしで働かなければならず
しかも最近は10年前の半分くらいまでバイトの人数が減らされており
人間性を積極的に失ってロボットになりきらないと仕事が片付かない状況でもありまして・・・

どちらも
不健康な社会の象徴として知られなければならないと思います

他人事ではありません!!


わたしはといいますと
休みはないのでございます

しかし
具体的な他者にかかわるゆえに
自分の時間が取れないというだけであり
決してロボットになるわけでもなく

不健康な社会の中に人間本来の健康さ(身体や精神ではなくて人格の)
を介入させるという行為をしたいわけなので

たいへんだけれども幸いなのです

しかし
月曜日の午後は
自分のための時間を使わせていただきました

共に平和運動を担う方が
映画の株主招待券を2枚くださいまして
それが4月まで有効なものだから
なんとか数時間とって
若菜さんと見に行こうと思っておりました

そして月曜日は午前中に集中して
いわゆる仕事をできるところまでやって

午後は映画を見ました

おっぱいバレー

を見ました


わたし
テレビの宣伝を見て
これは見なければならない!と思っておりました

というのは

練習をしたこともない中学生がバレーボールに心底打ち込む動機が
大会で一勝したら顧問の若い女性の先生のおっぱいを見られるという約束にあった
というのは

とても意味深いからです

わたしたちが夢中になり
ゆえにそこから深みを知り
さらにそれにより人格が深まり
成熟し
とりわけ関係性を獲得し
ずるくならない人間となるための

動機とか目的は

純粋であることなどほとんどないし
純粋である必要などないし

純粋な目的で動いていたりしたら
それはいつか実は破綻するし
でも純粋であるばかりに破綻したことを無意識にも隠して
さらに変な気力でがんばるということが起きるし
実は大変なわけです


目的と手段
目的と動機

などなどは

ねじれていて当然なのです


ホームレスを強いられている人が礼拝にこられたときに

「それは礼拝後の食事が目的なのだ」

という(あるいは思っている)キリスト者がおりますが


目的は実はこのようにねじれているほうが本来的ではないかと思います。

ねじれているにもかかわらず!礼拝をしたという事柄がそこにある!
こと自体が本当の意味だと思います

つまりそれこそ主の招きという意味です

礼拝にかぎらず
すべての行動は主の招きだと信じるならば
むしろ
動機や目的はねじれていることを発見するのだろうと思います


目的の純粋さを求めると
人格が破綻してきてしまう
ということを
本日はひとつのヒントとして提示してみたいと思います




おっぱいバレーはこのテーマを深めてくれていました!!

感動しました!!

これはハリウッドでは思いもつかないところのテーマだと思います



また舞台が70年代の北九州でして

日本のバプテストにとって北九州は宣教の開始からの大切な場所ですし
またわたしの母親が育っている場所でもあって

そういう情景を見たいというのもありました

わたしは北九州で生活したことはないのですが
(出張などでよく行きはしますが)
不思議な懐かしさを覚えました

なぜでしょう?
遺伝子のせいでしょうか?

まあそれはどうでもいいとして


昨今の動機や目的を過剰に重要視し
また意識する考え方は

とても非人間的!
だと思うわけです

むしろ人間的なのは

ねじれなのです

十字架がなにしろねじれなんだから・・・

というわけで
おしまい。。。