きぼう屋

生きているから生きている

基本単位

2009年04月19日 | 教会のこと
今週の京都教会週報巻頭言です。

***************************

「基本単位」

先週の祈祷会で
ヨハネ福音書のイースターの場面を参加者みんなで分かち合いましたが、
その中で
主イエスが
キリストという事柄を、
キリストの体なる教会共同体に委託していることを再確認しました。
これは驚くしかないことです。
でも、教会共同体とは、
本当に、
そこから救い、そして愛と和解とが起こるキリストの体なのです。

「ボンヘッファーとキング 抵抗に生きたキリスト者」
という多少難しくまた厚い本を再読しています。
キングはわたしたちバプテストの良心であり、
アメリカで黒人解放のために生きた牧師です。
ボンヘッファーはドイツでナチズムによるユダヤ人虐殺に抵抗した牧師です。

そしてふたりに共通しているのは、
教会共同体というキリストの体であることを信じ、
教会共同体というキリストの体として祈り、聖書から聴き、生きていることです。

だから白人やナチスという敵に対して、ただしい者としての自分が敵を非難をする
というやり方を、
ふたりはまったく取ることができませんでした。

彼らは自分たち教会共同体の罪や悪をも知るゆえに、
自分たちの罪と、白人やナチスの罪を、
キリストが一緒に赦すという出来事に立ちつつ、
キリストにより正義へと一緒に招かれるところに立ちつつ
ゆえに、
罪を担い、悪とたたかい、敵を愛し、
教会共同体として活動をしました。

わたしたち一人ひとりは確かに個人としてユニークな存在です。
しかしそれは個人という単位が大前提となるということとイコールでしょうか。
聖書はそうは言いません。
わたしたちはめいめい、愛と赦しと和解によりつながる教会共同体の象徴です。
そしてめいめいユニークなのは、
共同体において明確に知ることになる他者と自分との「異なり」です。

もっというならば、
異なるという出来事の中心であるキリストの
十字架と復活の出来事、
苦しみと輝きの出来事、
愛と赦しと和解が、
わたしたちめいめいに響いてくるゆえに
めいめいがユニークなわけです。

すると、
異なったままで共に生きるというすごい出来事が
でもまったく無理なく起こされます。
一方で
個人が単位の前提であることを語る個人主義に立つと、
かなり無理して他者と共に生きることになります。
これはおそらく多くの人が経験済みだと思います。
さらにはそのストレスで心身の調子を崩した人も多いはずです。

でも本当は共同体が基本単位です。
キリストの体と、
キリストだからこそ起こる愛と赦しと和解が
基本単位です。

ここは日本という状況なので
教会共同体を別の言い方でいうならば
基本単位とは、
共に生き、愛し合うことに命をかけている共同体
であります。
そしえそれをキリスト信仰でさらに言うならば
基本単位とは
共に生き、愛し合うことが、自分の能力ではどうにもならず、キリストの十字架と復活、つまり愛と和解にかけるところの共同体
となります。

だからストレスはこういう共同体の前では力を発揮することなどできません。
つまり
この教会共同体という基本単位にはストレスがないどころか、逆に救いがあります。

そしてわたしたちは今日も
基本単位としてキリストとその身体たる共同体を贈られています。

単位が違うと全部違ってくるから
これはとても大事なことです。

共にキリストの体なる共同体を生きていきましょう。