きぼう屋

生きているから生きている

偽証

2009年04月27日 | 「生きる」こと
ひとつまえの記事で述べたように

証言は真理です。
でも真実である必要は実はありません。

痛み
苦しみ
悲しみ



はそれが嘘となっても大げさになっても

事柄があるかぎり真理であり

偽証にはなりません。


ならば偽証とは??

十戒は偽証するなかれ!と厳しく戒めます。

それは
嘘をつくな!ではありません

それは
痛み
苦しみ
悲しみ


を覆い隠すために

そのほとんどは自分が他者に与えたそれらを覆い隠すために

証言をかえるな!

ということです。

もっというと
そしてこちらが本質なのですが

自分の罪を覆い隠すための証言をするな!

ということです。


罪を覆い隠すことが偽証です。

逆に言うと
そしてこれは極めて大事なことですが

真理は罪の中にあります
罪をひとつひとつ丁寧に想起するときに
その中で十字架にかかるキリストを発見し
そのキリストこそ真理である
という事柄が起こされます


わたしたち人間が人間であろうとするならば



が中心にあることを知り
それをゆるされるゆえに受け
その中心たる罪から
すべてを見聞きし
すべてを考え

さらには中心たる罪の中心たる十字架のキリストから

言葉を聴くことが不可欠です。


というわけでつまり
罪を担わないことが
偽証です。


証言と真理

2009年04月27日 | 「生きる」こと
証言は真理です

聖書の証言は真理です
虐げられた者の証言は真理です

でも真実ではないかもしれません

でも真実でないことに何の意味があるのでしょうか

嘘だろうと脚色があろうと
そこで事柄が語られているならば
それは真理であり
歴史上客観的に認められる出来事です

つまらない歴史家は
真実かどうかだけを探ります
それでもって
逆に事柄を失い
真理を見落とします

真実しか興味のない人は
だいたいいつの間にか
他者攻撃のために真実を用いることだけやっていて
本質からどんどん反れていきます


証言における事柄にこだわるとき
それが真実か嘘か脚色があるか
なんてことは
聴く側がわかります
事柄にこだわるからわかります

だから
語る側に真実のみ語ることを要求しなくてもいいわけです

嘘がわからないうちは
聴く側がまだまだ事柄に触れていない
と反省することになります

そしてさらに

事柄を表現するためには
真理を生きるためには
そのための
嘘や脚色の入っている物語が
どうしても必要となることをも

事柄にこだわる者はよく知っています


証言

ここに真理があります