今週の週報巻頭言です。
******************
「復活」
イースターおめでとうございます。
今年もキリストの復活と共に世界の復活が起こされます。
ひとりひとりみんなの復活が起こされます。
だから遠慮なく復活の生をご一緒に歩みましょう。
当教会からはじまったホームレス支援機構・京都寄り添いネットは、
秋の機構改革に向けて準備中です。
改革の中心は、「共に生きる」支援を設けることにあります。
ホームレスとは「ホーム(家族、関係)」の「レス(喪失)」と当ネットは捉えています。
だから当ネットの支援はそもそも関係づくりであり、
それは「共に生きる」支援でもあるわけですが、
それを本格的に組織化したいと願っています。
これまでは高齢のホームレス当事者が多かったため、
確かに共に生きる支援をするものの、その内容は限られていました。
しかし昨年の金融危機以降、
若年層のホームレスが増え、
共に生きる中身がその若者の「ホーム」=家族となり、
若者がこれから抱える再就職、結婚、出産、子育てなどの課題を
支援者が共に担う必要があるというところまで拡大してきました。
もちろん、この課題は国などの福祉にがんばってもらうべきで、
行政とNPOとで組織的に「共に生きる支援」をできる日が来るのを期待しますが、
しかし、それができるようになっても、
支援の本質は、
具体的なホームレスのAさんに、そのAさんの「ホーム」となる具体的なBさんが、
それこそ自分の子どもや親に献身的にかかわるのと同じ質でかかわることにあることは、
まったく揺らぎません。
つまり、キリスト教会から始まった福祉は、今再びキリスト教会の本質に戻ってきた!
という時代を迎えているのだろうと思います。
わたしは今、
京都のキリスト教関係者に、
京都のキリスト教全体で「共に生きる」支援をする提案をしています。
それは、
キリスト信仰とは、わたしたちがキリストの体という、あらゆる条件を超えた「ホーム=家族」とされるところに、
キリストの体の復活という出来事を見出すことだからです。
そして教会も同時に今一度キリストの体へと復活します。
本当の意味で共に生きる仲間としての教会と、
本当の意味で共に生きるからこそ必要となる
赦しと和解と愛の具体的人格であるキリストを贈られて、
今後とも互いに天に召されるまで、
しつこいけれども本当の意味での家族となることができたら幸いですし、
聖書から知るならば本来はそうあるべきなのだと思います。
ぜひ共にずっとキリストの体として歩みましょう。
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「復活」
イースターおめでとうございます。
今年もキリストの復活と共に世界の復活が起こされます。
ひとりひとりみんなの復活が起こされます。
だから遠慮なく復活の生をご一緒に歩みましょう。
当教会からはじまったホームレス支援機構・京都寄り添いネットは、
秋の機構改革に向けて準備中です。
改革の中心は、「共に生きる」支援を設けることにあります。
ホームレスとは「ホーム(家族、関係)」の「レス(喪失)」と当ネットは捉えています。
だから当ネットの支援はそもそも関係づくりであり、
それは「共に生きる」支援でもあるわけですが、
それを本格的に組織化したいと願っています。
これまでは高齢のホームレス当事者が多かったため、
確かに共に生きる支援をするものの、その内容は限られていました。
しかし昨年の金融危機以降、
若年層のホームレスが増え、
共に生きる中身がその若者の「ホーム」=家族となり、
若者がこれから抱える再就職、結婚、出産、子育てなどの課題を
支援者が共に担う必要があるというところまで拡大してきました。
もちろん、この課題は国などの福祉にがんばってもらうべきで、
行政とNPOとで組織的に「共に生きる支援」をできる日が来るのを期待しますが、
しかし、それができるようになっても、
支援の本質は、
具体的なホームレスのAさんに、そのAさんの「ホーム」となる具体的なBさんが、
それこそ自分の子どもや親に献身的にかかわるのと同じ質でかかわることにあることは、
まったく揺らぎません。
つまり、キリスト教会から始まった福祉は、今再びキリスト教会の本質に戻ってきた!
という時代を迎えているのだろうと思います。
わたしは今、
京都のキリスト教関係者に、
京都のキリスト教全体で「共に生きる」支援をする提案をしています。
それは、
キリスト信仰とは、わたしたちがキリストの体という、あらゆる条件を超えた「ホーム=家族」とされるところに、
キリストの体の復活という出来事を見出すことだからです。
そして教会も同時に今一度キリストの体へと復活します。
本当の意味で共に生きる仲間としての教会と、
本当の意味で共に生きるからこそ必要となる
赦しと和解と愛の具体的人格であるキリストを贈られて、
今後とも互いに天に召されるまで、
しつこいけれども本当の意味での家族となることができたら幸いですし、
聖書から知るならば本来はそうあるべきなのだと思います。
ぜひ共にずっとキリストの体として歩みましょう。