関西地方連合ニュースレター巻頭言です
発行は一週間後くらいでしょうか
信徒大会の案内ポスターといっしょに
関西地方連合諸教会・伝道所に届きます
*********************
「顔と顔とをあわせて・・・自立と交わり」 大谷心基
聖書
「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」
(創世記32:31=新共同訳)
夜も昼も、私たちはこの上なく熱心に、あなたがたと顔を合わせることと、
あなたがたの信仰の不足分を補完することとを、祈っている。
(Ⅰテサロニケ3:10=岩波訳)
主の伴いを感謝いたします。
みなさまの教会・伝道所の交わりには必ず主が伴われております。
それは顔を合わせるかたちで伴われていると信じます。
もちろんわたしたちの五感や第六感で知るとかではなくて、
信仰で主の伴いを受けます。
五感などの限界を主ご自身が十字架で共に担われるゆえに、
わたしたちはその十字架において、
五感を、あるいはカルト的な第六巻を超えて、
主に出会い、主と共に歩みます。
この主と顔を合わせる生々しさを
ぜひとも教会・伝道所の交わりの中で大切にしていきたいと願います。
また逆に
生々しさを失うことがないよう
互いに切に祈ることができればとも願います。
と言いますのは、
私たちの交わりは、
主の顔という生々しさよりも、
主の名を原理化したような言葉を大切にしてしまうことが実は多いのからです。
現在において主の名の原理化は
教義や教会形成方法などに現われていると思います。
聖霊の原理や実存の原理やバプテストの原理など、
文字で説明できるような事柄が主の顔の前に立っている
と認識するのは私だけではないことと思います。
主は出エジプト記において、自らの名を明かしませんでした。
それは主の名の原理化、抽象化、主義化が人間の都合で起こることを
知っていたからだろうと考えます。
そして主はただ「あってある者」と名乗りました。
これに関するいろんな解釈はありますが、
わたしは、
「生々しく顔を伴って活動する主の、その時その場所における働き」
と主が名乗られた!と読んでいます。
さらに主は、
この生々しい主と共にある信仰者を、
主の働きゆえに世の権力者の前に派遣する、
という名であることも同時に述べています。
だからわたしは、
まずは生々しい主の顔をいつも見ること、
それゆえに、教会の交わりのひとりひとりの顔を見ること、
さらには、関西の諸教会・伝道所につらなるひとりひとりの顔を見ること、
を、今年度は関西地方教会連合のテーマにしたいと思いました。
これは強烈で大胆な一点突破をかかげたものであり、
そこには合理的な方法もしたたかな策略も全くありません。
嬉しかったら顔と顔とを合わせて一緒に感謝し喜ぼう!
問題が起きたら、顔と顔を合わせてから祈ったり考えたりしてみよう!
顔をあわせる前に脳みそや感情にあらわれる他者や交わりに対する思いや評価などは、顔を合わせるまでは保留にしよう!
という、端的なテーマです。
そしてさらに期待するのは、
顔を合わせずに言葉のやりとりをするときは、
原因と結果や、目的と手段となどが語られるけれども、
顔と顔とをあわせるところでは、
十字架と復活を共に味わうという出来事が起こるに違いないということです。
顔を合わせると仲介者である生々しい主が本当に働くと私は信じます。
そして
自立する者とは、
顔を合わせることのできる者ではないでしょうか。
責任を担う者とは、
顔を見たその相手のすべてを共に引き受ける者ではないでしょうか。
協力というのは
そもそも相手と顔を見て出会うことなしに、始まることもむずかしいのではないでしょうか。
めいめいの教会・伝道所の交わりでも、
地方連合の交わりでも、
なにしろ顔と顔とを合わせて!
共に祈り!
共に礼拝し!
共に語り!
共に食べ!
共に担い!
共に歩みたい!
と願います。
臨在の主に感謝しつつ。
発行は一週間後くらいでしょうか
信徒大会の案内ポスターといっしょに
関西地方連合諸教会・伝道所に届きます
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「顔と顔とをあわせて・・・自立と交わり」 大谷心基
聖書
「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」
(創世記32:31=新共同訳)
夜も昼も、私たちはこの上なく熱心に、あなたがたと顔を合わせることと、
あなたがたの信仰の不足分を補完することとを、祈っている。
(Ⅰテサロニケ3:10=岩波訳)
主の伴いを感謝いたします。
みなさまの教会・伝道所の交わりには必ず主が伴われております。
それは顔を合わせるかたちで伴われていると信じます。
もちろんわたしたちの五感や第六感で知るとかではなくて、
信仰で主の伴いを受けます。
五感などの限界を主ご自身が十字架で共に担われるゆえに、
わたしたちはその十字架において、
五感を、あるいはカルト的な第六巻を超えて、
主に出会い、主と共に歩みます。
この主と顔を合わせる生々しさを
ぜひとも教会・伝道所の交わりの中で大切にしていきたいと願います。
また逆に
生々しさを失うことがないよう
互いに切に祈ることができればとも願います。
と言いますのは、
私たちの交わりは、
主の顔という生々しさよりも、
主の名を原理化したような言葉を大切にしてしまうことが実は多いのからです。
現在において主の名の原理化は
教義や教会形成方法などに現われていると思います。
聖霊の原理や実存の原理やバプテストの原理など、
文字で説明できるような事柄が主の顔の前に立っている
と認識するのは私だけではないことと思います。
主は出エジプト記において、自らの名を明かしませんでした。
それは主の名の原理化、抽象化、主義化が人間の都合で起こることを
知っていたからだろうと考えます。
そして主はただ「あってある者」と名乗りました。
これに関するいろんな解釈はありますが、
わたしは、
「生々しく顔を伴って活動する主の、その時その場所における働き」
と主が名乗られた!と読んでいます。
さらに主は、
この生々しい主と共にある信仰者を、
主の働きゆえに世の権力者の前に派遣する、
という名であることも同時に述べています。
だからわたしは、
まずは生々しい主の顔をいつも見ること、
それゆえに、教会の交わりのひとりひとりの顔を見ること、
さらには、関西の諸教会・伝道所につらなるひとりひとりの顔を見ること、
を、今年度は関西地方教会連合のテーマにしたいと思いました。
これは強烈で大胆な一点突破をかかげたものであり、
そこには合理的な方法もしたたかな策略も全くありません。
嬉しかったら顔と顔とを合わせて一緒に感謝し喜ぼう!
問題が起きたら、顔と顔を合わせてから祈ったり考えたりしてみよう!
顔をあわせる前に脳みそや感情にあらわれる他者や交わりに対する思いや評価などは、顔を合わせるまでは保留にしよう!
という、端的なテーマです。
そしてさらに期待するのは、
顔を合わせずに言葉のやりとりをするときは、
原因と結果や、目的と手段となどが語られるけれども、
顔と顔とをあわせるところでは、
十字架と復活を共に味わうという出来事が起こるに違いないということです。
顔を合わせると仲介者である生々しい主が本当に働くと私は信じます。
そして
自立する者とは、
顔を合わせることのできる者ではないでしょうか。
責任を担う者とは、
顔を見たその相手のすべてを共に引き受ける者ではないでしょうか。
協力というのは
そもそも相手と顔を見て出会うことなしに、始まることもむずかしいのではないでしょうか。
めいめいの教会・伝道所の交わりでも、
地方連合の交わりでも、
なにしろ顔と顔とを合わせて!
共に祈り!
共に礼拝し!
共に語り!
共に食べ!
共に担い!
共に歩みたい!
と願います。
臨在の主に感謝しつつ。