きぼう屋

生きているから生きている

主イエスが開く

2009年04月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「主イエスが開く」

目と耳に限らず、
身体のすべての器官が硬直しました。

小学生の娘を虐待し、殺し、埋めた事件の報道を受けることに
身体が耐えられなかったのかもしれません。

昨日の新聞によると、
近所の方々も気づいており、関係機関に相談していたとのことです。
しかしその機関は知らないと言っているそうです。
また、親が娘を「臭い」「汚い」「家に上がるな」とのしりながら殴る音が外に聞こえ、
さらに小学2年生の娘さんが「はい」「ごめんなさい」と泣き叫ながら応える声が聞こえた、
という証言も掲載されておりました。

残酷すぎます。

ここでは家族、地域、行政などすべてが閉じていると思います。

そしてこれは他人事ではないと感じます。

交わりがその外側の世界に開かれず閉じるとき、
外側の世界で受けるストレスを閉じた空間で爆発させるのは、
もはや人間の本性であることを、
この時代は発見していると思います。

そして閉じた世界の中で
体力、経済力、知力における弱者が爆発の衝撃を受け、
傷つき、時に死に至ります。

地球規模の搾取の循環、教室規模のいじめの循環なども同じこの構図ではないでしょうか。

私たちが本当に幸せになりたいならば、
しんどくても性に合わなくても、
自らの生きる共同体を、また自分自身を、
その精神から所有に至るまで開くことが本当に大事な時代です。

これは「プライバシー」の最近のイメージとは逆のことのお話しです。
「プライバシー」はもはや本来の深い精神を失い、
過度な自己防衛の肯定を表現するケースが多くなってしまいました。

閉じると本当に危険です。

だから復活のイエスはすべての鍵をかけて閉じきった弟子の部屋に、
それでもなお入り、
弟子たちを世界に開いたわけです。
ヨハネ黙示録によれば、
閉じた部屋(交わり・個人)のドアをキリストがたたいているわけです。
女性、子ども、障害のある者、病を持つ者に閉じていた共同体を、
イエスは叱責してでも開いたわけです。
そもそも教義や雰囲気や伝統などで閉じていたユダヤ教会を
イエスは繰り返し開きました。

そして私たちも主イエスに開かれます。

アーメン