きぼう屋

生きているから生きている

証言と真理

2009年04月27日 | 「生きる」こと
証言は真理です

聖書の証言は真理です
虐げられた者の証言は真理です

でも真実ではないかもしれません

でも真実でないことに何の意味があるのでしょうか

嘘だろうと脚色があろうと
そこで事柄が語られているならば
それは真理であり
歴史上客観的に認められる出来事です

つまらない歴史家は
真実かどうかだけを探ります
それでもって
逆に事柄を失い
真理を見落とします

真実しか興味のない人は
だいたいいつの間にか
他者攻撃のために真実を用いることだけやっていて
本質からどんどん反れていきます


証言における事柄にこだわるとき
それが真実か嘘か脚色があるか
なんてことは
聴く側がわかります
事柄にこだわるからわかります

だから
語る側に真実のみ語ることを要求しなくてもいいわけです

嘘がわからないうちは
聴く側がまだまだ事柄に触れていない
と反省することになります

そしてさらに

事柄を表現するためには
真理を生きるためには
そのための
嘘や脚色の入っている物語が
どうしても必要となることをも

事柄にこだわる者はよく知っています


証言

ここに真理があります