拝啓 夏目漱石先生

自称「漱石先生の門下生(ただのファン)」による日記

New Star Creation

2007-03-01 17:30:11 | 日記
1982年に設立されて以来、毎年多くの若手お笑い芸人を輩出する吉本興業のタレント養成学校「NSC」。ダウンタウンが調度この学校の第一期生だったので、彼ら以降の吉本芸人たちはほぼ100%このNSC出身ということになる。毎年大量に若者たちがこの学校に入ってくるため吉本の芸人人口は膨れあがり続け、当然芸人同士の競争は激化していくばかり。NSC内でどんな授業が行われているのかはよく知らないが、大量にいる同期生の中からコンビの相方を探す場、というのがこの学校の存在意義であるっぽい。
一期生のダウンタウンがNSCに入るきっかけとなったのは、浜田が大阪の街で貰ってきた一枚のチラシ。「吉本が新しく芸人の学校作るらしいから入ろうや」という話を松本にふったという。当時二人は高校卒業間近。中学時代から「将来は芸人になろう」と約束していたが、高校は別々、しかも浜田は三重の全寮制某私立高校に行ったため会う機会が減り、その話は無かった事になりつつあった。既に就職を決めつつも芸人になる夢もなんとなく捨てきれずにいた松本だったが、自分が進路に悩んでいる時を見計らっていたかのようなタイミングに吉本が芸人養成学校を作るということを知り、就職を蹴って迷わずその世界に飛び込んだのだった。小学校時代から「学校一おもろい奴」と呼ばれ続けた松本と、既に現在のように強引でイケイケな性格だった浜田(友人の「伊藤君」と大ゲンカし、当時彼とコンビを組んでいた松本を結果的に奪い取るほどのアグレッシブさ)。コンビはすぐに吉本内で頭角を現し、いきなり「今宮戎漫才コンクール」でプロを差し置いて優勝。その勢いで1982年8月1日、NSC入学からわずか四ヵ月で笑いの殿堂、「なんばグランド花月」で初舞台を踏むに至った。
しかし彼らの勢いはここでいきなり失速してしまう。彼らが出演する時間に劇場に来る客はお年寄りばかりでネタが全くウケず、さらに舞台慣れしていないので声が小さくネタを聞き取れない。さらに楽屋では先輩芸人たちに疎ましがられる。当時新人芸人はまず先輩芸人の付き人となり、そこで笑いのいろはを学ぶのが当たり前だった。何年も「師匠」である先輩の下で芸を学んで初めて花月の舞台を踏める…というのが暗黙のしきたりだった。そんな場所で、吉本興業が突然作った養成所出身の、芸歴数ヶ月の十代の若者が居場所を作れるはずが無かったのだ。ダウンタウンの人気に火がつき始めたのは松本の著書『松本坊主』によると1985年ごろ。深夜ラジオのレギュラー番組を持ったことがきっかけだったそうだ。そこでは現在の『ガキの使いやあらへんで!』のフリートークの原型となるような、リスナーからの質問ハガキに松本がデタラメに答えるという番組をやっていたらしい。そのラジオが始まるまでは先輩たちやたまに劇場にやってくる若者たちにはダウンタウンの面白さを理解してもらえ始めたものの(当時スターだった島田紳助が組んでいたお笑いコンビを自ら解散させ、会見で「このまま漫才をやっていてもダウンタウンには勝てない」と発言したことは有名。勿論ダウンタウンなど無名で、記者たちは「え、誰だよそいつら…?」と不思議に思ったことだろう)、コンビ史に残る不遇の時代だったそうだ。しかしダウンタウンが不遇の時代を超えて大阪で人気者になるころには同じNSC出身の後輩芸人が続々登場。ダウンタウンはNSC一期生というだけではなく、「師匠のいないお笑い芸人」のパイオニアでもあったのだ。
そんな不遇な時代の二人の漫才を、私の父は生で見たことがあるという。私が生まれる前の84年頃。会社の慰安旅行で大阪に行き(ショボイな)、なんばグランド花月で若き日のダウンタウンの舞台を目撃したらしい父。しかしダウンタウンなど全く知らなかった父及び同僚たちは「え、知らねーこんな奴ら。どーでもいいや」ということでダウンタウンの漫才の時間をトイレ休憩にしたり、弁当を食す時間にあてていたらしい。そして浜田に「おいおいそこなに弁当食っとんねんコラァァ!」と舞台上からツッコミを入れられたとか。どうやらうちの父には先見の明は無かった模様。

追記
ラルクの9年ぶりのホールツアーのタイトルが決定した模様。
『Are you ready? 2007 またハートに火をつけろ!』…ちなみに9年前のツアータイトルは『ハートに火をつけろ!』であった。な、なんてテキトーな…!でもこのテキトーさ加減こそがラルクの魅力だよな。「また」って…。初めてアルバム『SMILE』のジャケを見た時以来の衝撃だわ。


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