M.Hさんは私よりずっとお若い方で私と同じように旧大川村小立岩を古里になさっていらっしゃって現在は神奈川県にお住まいなさっています。小立岩に関わる小説などお書きになっていらしゃるんですけど、ひょうんなことから私のブログをお知りになりそれから懐かしい古里への思いいっぱいのメールを送って頂くようになりました。
小立岩と言うのは十数軒の小さな聚落で、尾瀬への福島県側からの登山口の檜枝岐村に隣りしている集落です。今は近くにスキー場も出き、集落を通る道は尾瀬への観光道路で舗装され民宿などの立派なお家が並んでいますけど私が子どもだった80年前は馬車がやっと一台通れる狭い砂利道をはさんで茅葺きの民家が並んでいる小さな聚落でした。私は小学校1年から5年までこの聚落で幸せいっぱいに暮らしていました。
集落の前にはこんな険しい底雪崩れに削られた高く険しい山肌が迫っております。子どもの頃の私たちは、右の雪崩跡を「おおなでぶち」左の雪崩跡を「しんなでぶち」と呼んでいました。雪解けの春轟音をたて雪煙を上げて落ちる底雪崩は厳しい冬から暖かい春へ変わる楽しいお祭りで子どもたちを喜ばせていました。「なでだぁー」と歓声をあげて喜ぶ子どもたちの声をはっきりといまでも思い出せます。
村の鎮守様の岩屋です。私は小立岩に訪れる度に必ずお参りして「ただ今帰りました」と報告いたします。大事な大事な私の心の鎮守様なんです。
そんなM..Hさんからこんな嬉しいコメントを頂きました。
「新潟福島大豪雨」
新潟福島大豪雨で鉄橋などが破壊され一部代行バスで連絡していた只見線の全線開通を楽しみにしている人は全国に沢山いますね。私の知り合いにもそう言っている人がいました。
2011年(H23)7/26、27日の豪雨で、安越又川(あごしまたかわ)上流で大土砂崩れが起き、大氾濫しました。2日間小立岩は陸の孤島となり、村の外で働いていた人は村へ戻れませんでした。その時、誰も住んでいないはずの上流から「享保12丁未 」「越内不夢信士」「覚了恵信女」と記された石塔が流れてきて、河原の中にありました。これは、ミステリーとしか言いようがありません。江戸時代の村人の石塔は自然石のようなものが多いような気がします。この石塔は村の墓地に納められましたが、今見ても立派な石柱です。円に二の字の家紋もついています。さんたろうさんは、この謎をどのようにお考えですか
私は懐かしい安越又川のこのコメントに心打たれ心ふるえてこんなコメントを書かずにいられませんでした。
すごい感動的なお話に懐かしい安越又川の思いが甦ってちょと胸がじーんとしてしまいました。それでメールでのお答えではなくブログの本文でお答えすることにいたしました。長い駄文ですけどもお暇なおりなどございましたらお読みいただければ嬉しいです。
[M.Hさんのメールにお答えして]
子どもの頃安越又川の奥地に一度だけ親友のトクオ君と一緒に訪れたことがあります。安越又川は懐かしいけど美しく神秘的な思いが私にはあるんですよ。
一里ほどもあったんでしょうか奥地のブナの林の中、そこはもう綺麗な澄んだ流れが細くなっていましたけど渓流に懸けられた木の一本橋を渡ると数軒の笹や萱で作られた木杓子(たしか宮島といっていたようなに思います。あるいは安芸の宮島に製品が送られていたのかも知れません)を作る小屋の集落がありました。小屋の中にはそれぞれの工程で使われる研ぎ澄まされた刃物が並べられており、それぞれの工程の半製品がいっぱお並べてありました。ご夫婦で協力して木杓子が作られていたんです。私とトクオ君は大歓迎を受けうるち米をついた美味しい餅をご馳走になりました。里とはひと味違った木杓子打ちの小屋の集落の人たちへの思い出が懐かしいです。
こんな物語も聞いていました。ある男が安越又川でイワナの毒もみ漁をしようと渓流のあちこちを眺めながら歩いていると、どこからか白髪の老人が杖をついて現れ「安越又川で釣られるイワナはニセの餌に釣られる卑しいイワナだから釣りはいいけれども、毒もみ漁はすべてのイワナを根こそぎ殺してしまう残酷な漁です。決してやってはいけません」と諭しました。男は心打たれて白髪の老人と二人でもって来た団子を食べながら美しい渓流の世界の話を聞きました。
毒もみを取りやめた男は帰り道深い渓流の淵でたくさんのイワナの泳いでいるのを見て白髪の老人に諭されたことをを忘れ誘惑に負けて思わず毒草の汁を淵に流してしまいました。そして浮かんだまるでマスのような大きなイワナを始めたくさんのイワナやヤマメを捕って心嬉しく家に帰って魚の腹をさいて内臓を取っていました。するとマスのように大きなイワナの腹からさっき白髪の老人と一緒に食べた団子が出てきました。男は驚き怖れてそれ以後決してイワナ漁はもちろんすべての殺生を止めて慎ましく暮らしたといううことです。白髪の老人は大きなイワナの化身だったんですね。恐ろしくも悲しいものがたりでした。
また昭和9年(1934)私が小学校2年の時、東北地方は冷害で大凶作に襲われました。その年の五月は深い積雪が残っていて苗代をつくることが出来ませんでした。集落の人たちが総出で苗代を作るための除雪作業をしている姿がありありと思い浮かびます。
秋になっても稔りがありません。そのとき大川小学校の生徒は全部で60人でした。お昼の弁当を持ってくる子はほとんどありませんでした。裕福な子のもって来るお昼のわっぱの中はご飯でなく片隅に赤いカボチャがあるだけでした。恐ろしい飢餓の世界でした。
大人たちの生活の様子は分かりません。でもその60人の生徒の小学校に援助の手が届いたのです。その前年室戸台風という中心気圧911ベクトル瞬間最大風速毎秒60mの記録的な台風が室戸岬に上陸して関西地方に大被害をもたらしました。そのとき水につかって商品にならない白米といわしのほう通しが大量に飢餓の大川小学校に送られてきたのです。
集落のお母さんたちが学校に集まってその米を炊き出し子どもたちの持ってきたわっぱに白米のご飯を盛りいわしを一匹つけてこどもたちに渡したのです。その白いご飯がどんなにおいしかったか夢のような極楽の世界です、思い出すと自然と笑顔に涙が浮かびます。
その時幼い私に怖い噂が耳に入りました。安越又川奥地の杓子打ち小屋で一人の若者が沢の奥で道に迷ったか事故にあったかして行方不明になりました。でもそれは行方不明ではなくて食料不足のための間引きではなっかたのか・・という怖い噂でした。もちろんそれは根も葉もない噂に過ぎないことは後にはっきりするんですけども、飢餓と言うのはそんな恐ろしいうわさをさえうむんですよね。私の幼い思い出のなかに安越又川のそんな怖い思いもあるんです。
「新潟福島豪雨で安越又川が氾濫し小立岩集落が孤立した時上流から安越又川上流から「享保12丁未」「越内不夢信士」「覚了恵信女」と記された石塔が流れてきた。しかっもマルに二の字の紋が彫られていた。」享保12年といえば290ほど昔将軍吉宗の時代ですよね。
お二人の戒名にも深い思いがあるように思えます。どしろうとの私は男の人の戒名「越内不夢信士」は「越内(安越又川の内に住居して)不夢(夢のような世界であってもその現実をしっかりと生き抜いた)人」と表して居るようにに思え。女の人の戒名「覚了恵信女」は「覚了(悟りきって)恵(心温かい恵み深い女の人)」と表しているように思えるのです。それにマルに二の字の家紋は(足利二つ引き)室町時代の足利将軍家紋とネット百科事典にありました。それでマルに二の字家紋はあるいは武士の流れを汲む家紋ではなかろうか?などとも思うのです。
安越又川の奥地には耕地など皆無です、簡単に考えると奥会津の奥地ブナ林のなかで平地の農民とは隔絶独立して暮らしていた木地師では?・・とも言えそうですけどもそう簡単には片付けれない「越内不夢信士」「覚了恵信女」のご夫婦の石塔のようにも思われます。
ともあれ、私にとっては懐かしいけどなんか神秘の思いがいっぱいの安越又川なんです。
懐かしい古里小立岩がいっそう懐かしく思えるようになりました。M.Hさん貴重なコメントありがとうございました。
小立岩と言うのは十数軒の小さな聚落で、尾瀬への福島県側からの登山口の檜枝岐村に隣りしている集落です。今は近くにスキー場も出き、集落を通る道は尾瀬への観光道路で舗装され民宿などの立派なお家が並んでいますけど私が子どもだった80年前は馬車がやっと一台通れる狭い砂利道をはさんで茅葺きの民家が並んでいる小さな聚落でした。私は小学校1年から5年までこの聚落で幸せいっぱいに暮らしていました。
集落の前にはこんな険しい底雪崩れに削られた高く険しい山肌が迫っております。子どもの頃の私たちは、右の雪崩跡を「おおなでぶち」左の雪崩跡を「しんなでぶち」と呼んでいました。雪解けの春轟音をたて雪煙を上げて落ちる底雪崩は厳しい冬から暖かい春へ変わる楽しいお祭りで子どもたちを喜ばせていました。「なでだぁー」と歓声をあげて喜ぶ子どもたちの声をはっきりといまでも思い出せます。
村の鎮守様の岩屋です。私は小立岩に訪れる度に必ずお参りして「ただ今帰りました」と報告いたします。大事な大事な私の心の鎮守様なんです。
そんなM..Hさんからこんな嬉しいコメントを頂きました。
「新潟福島大豪雨」
新潟福島大豪雨で鉄橋などが破壊され一部代行バスで連絡していた只見線の全線開通を楽しみにしている人は全国に沢山いますね。私の知り合いにもそう言っている人がいました。
2011年(H23)7/26、27日の豪雨で、安越又川(あごしまたかわ)上流で大土砂崩れが起き、大氾濫しました。2日間小立岩は陸の孤島となり、村の外で働いていた人は村へ戻れませんでした。その時、誰も住んでいないはずの上流から「享保12丁未 」「越内不夢信士」「覚了恵信女」と記された石塔が流れてきて、河原の中にありました。これは、ミステリーとしか言いようがありません。江戸時代の村人の石塔は自然石のようなものが多いような気がします。この石塔は村の墓地に納められましたが、今見ても立派な石柱です。円に二の字の家紋もついています。さんたろうさんは、この謎をどのようにお考えですか
私は懐かしい安越又川のこのコメントに心打たれ心ふるえてこんなコメントを書かずにいられませんでした。
すごい感動的なお話に懐かしい安越又川の思いが甦ってちょと胸がじーんとしてしまいました。それでメールでのお答えではなくブログの本文でお答えすることにいたしました。長い駄文ですけどもお暇なおりなどございましたらお読みいただければ嬉しいです。
[M.Hさんのメールにお答えして]
子どもの頃安越又川の奥地に一度だけ親友のトクオ君と一緒に訪れたことがあります。安越又川は懐かしいけど美しく神秘的な思いが私にはあるんですよ。
一里ほどもあったんでしょうか奥地のブナの林の中、そこはもう綺麗な澄んだ流れが細くなっていましたけど渓流に懸けられた木の一本橋を渡ると数軒の笹や萱で作られた木杓子(たしか宮島といっていたようなに思います。あるいは安芸の宮島に製品が送られていたのかも知れません)を作る小屋の集落がありました。小屋の中にはそれぞれの工程で使われる研ぎ澄まされた刃物が並べられており、それぞれの工程の半製品がいっぱお並べてありました。ご夫婦で協力して木杓子が作られていたんです。私とトクオ君は大歓迎を受けうるち米をついた美味しい餅をご馳走になりました。里とはひと味違った木杓子打ちの小屋の集落の人たちへの思い出が懐かしいです。
こんな物語も聞いていました。ある男が安越又川でイワナの毒もみ漁をしようと渓流のあちこちを眺めながら歩いていると、どこからか白髪の老人が杖をついて現れ「安越又川で釣られるイワナはニセの餌に釣られる卑しいイワナだから釣りはいいけれども、毒もみ漁はすべてのイワナを根こそぎ殺してしまう残酷な漁です。決してやってはいけません」と諭しました。男は心打たれて白髪の老人と二人でもって来た団子を食べながら美しい渓流の世界の話を聞きました。
毒もみを取りやめた男は帰り道深い渓流の淵でたくさんのイワナの泳いでいるのを見て白髪の老人に諭されたことをを忘れ誘惑に負けて思わず毒草の汁を淵に流してしまいました。そして浮かんだまるでマスのような大きなイワナを始めたくさんのイワナやヤマメを捕って心嬉しく家に帰って魚の腹をさいて内臓を取っていました。するとマスのように大きなイワナの腹からさっき白髪の老人と一緒に食べた団子が出てきました。男は驚き怖れてそれ以後決してイワナ漁はもちろんすべての殺生を止めて慎ましく暮らしたといううことです。白髪の老人は大きなイワナの化身だったんですね。恐ろしくも悲しいものがたりでした。
また昭和9年(1934)私が小学校2年の時、東北地方は冷害で大凶作に襲われました。その年の五月は深い積雪が残っていて苗代をつくることが出来ませんでした。集落の人たちが総出で苗代を作るための除雪作業をしている姿がありありと思い浮かびます。
秋になっても稔りがありません。そのとき大川小学校の生徒は全部で60人でした。お昼の弁当を持ってくる子はほとんどありませんでした。裕福な子のもって来るお昼のわっぱの中はご飯でなく片隅に赤いカボチャがあるだけでした。恐ろしい飢餓の世界でした。
大人たちの生活の様子は分かりません。でもその60人の生徒の小学校に援助の手が届いたのです。その前年室戸台風という中心気圧911ベクトル瞬間最大風速毎秒60mの記録的な台風が室戸岬に上陸して関西地方に大被害をもたらしました。そのとき水につかって商品にならない白米といわしのほう通しが大量に飢餓の大川小学校に送られてきたのです。
集落のお母さんたちが学校に集まってその米を炊き出し子どもたちの持ってきたわっぱに白米のご飯を盛りいわしを一匹つけてこどもたちに渡したのです。その白いご飯がどんなにおいしかったか夢のような極楽の世界です、思い出すと自然と笑顔に涙が浮かびます。
その時幼い私に怖い噂が耳に入りました。安越又川奥地の杓子打ち小屋で一人の若者が沢の奥で道に迷ったか事故にあったかして行方不明になりました。でもそれは行方不明ではなくて食料不足のための間引きではなっかたのか・・という怖い噂でした。もちろんそれは根も葉もない噂に過ぎないことは後にはっきりするんですけども、飢餓と言うのはそんな恐ろしいうわさをさえうむんですよね。私の幼い思い出のなかに安越又川のそんな怖い思いもあるんです。
「新潟福島豪雨で安越又川が氾濫し小立岩集落が孤立した時上流から安越又川上流から「享保12丁未」「越内不夢信士」「覚了恵信女」と記された石塔が流れてきた。しかっもマルに二の字の紋が彫られていた。」享保12年といえば290ほど昔将軍吉宗の時代ですよね。
お二人の戒名にも深い思いがあるように思えます。どしろうとの私は男の人の戒名「越内不夢信士」は「越内(安越又川の内に住居して)不夢(夢のような世界であってもその現実をしっかりと生き抜いた)人」と表して居るようにに思え。女の人の戒名「覚了恵信女」は「覚了(悟りきって)恵(心温かい恵み深い女の人)」と表しているように思えるのです。それにマルに二の字の家紋は(足利二つ引き)室町時代の足利将軍家紋とネット百科事典にありました。それでマルに二の字家紋はあるいは武士の流れを汲む家紋ではなかろうか?などとも思うのです。
安越又川の奥地には耕地など皆無です、簡単に考えると奥会津の奥地ブナ林のなかで平地の農民とは隔絶独立して暮らしていた木地師では?・・とも言えそうですけどもそう簡単には片付けれない「越内不夢信士」「覚了恵信女」のご夫婦の石塔のようにも思われます。
ともあれ、私にとっては懐かしいけどなんか神秘の思いがいっぱいの安越又川なんです。
懐かしい古里小立岩がいっそう懐かしく思えるようになりました。M.Hさん貴重なコメントありがとうございました。
当時の様子を生き生きと活写されたさんたろうさんの文章に、読んでいてどきどきしました。
遠い昔話のように思えますが、ほんの少し前の日本の出来事なんですよね。
美しいけれど厳しい自然に囲まれた山村は、遊びに行くには楽しいけれど生きていくには厳しいなと思いました。
今改めて訪れる小立岩は本当に猫の額のような狭い場所の小さな聚落です。でも幼かった私にはその狭く小さな小立岩が私の全世界でした。楽しい世界でした、輝いている世界でした。いろんなことのありましたけどすべてが美しい思い出になっているんです。
ですから小学校5年で別れて一度もあっていないクラスメイトのトクオ君・クラキチ君・トミエさん・イセコさん・スミ子さんのことがほんとうに懐かしいんです。M.Hさんに聞く小立岩のことどもは輝いているんです。安越又川のことを思うと心がふるえるんです。
秋のある日、私は母の介護で村にいました。気晴らしに安越又林道を車で上りました。その時自分の背丈より高いリュックを背負った女性に会いました。
山の中で三泊ほどし下山する途中でした。
その登山家は、有名な登山会のメンバーで、安越又の奥山を南会津アルプスと名付けていました。単独行で
度々訪れているようでした。その人ともその後時々メール交換しています。冬季に小立岩から安越又に入り、坪入山など奥山にスキー登山に行く人もいます。ブログがあります。安越又愛は、さんたろうさん、私だけではないようです。安越又、80歳老人夫婦、その家の男の子、登山家の女性を登場人物にして小説?を書き上げました。素人作文ですが、さんたろうさんに目を通していただければこの上ない喜びです。もし、よろしかったら「mhiro211@hotmail.com」にご連絡いただければ幸いです。
江戸時代古町の農民が安越又川を通って越後方面に逃散した記録とても興味がああります。江戸時代は農民の逃散は厳しいご法度でしたから沼田街道を通って越後に移動することなど出来かったんでしょうね。安越又川をさかのぼって越後への道などなかったでしょうから大変な危険で苦労の多い道を通っての逃散だったと思います。
銀山への人夫徴発免除願いの古文書、いろんな意味で貴重だと思います。
銀山平というとこんな悲しい思い出が私にあります。たぶん私が小学校3年の頃かな思うんですけど、厳しい積雪の冬に、陸軍航空隊の優れた士官が操縦する複葉の飛行機がエンジンの故障で銀山平に不時着しました。救護隊の人たちがそれを知って大津又峠を越えて救援に向かいました。厳しく吹雪く銀山平への道です。遭難地に着き遭難機を発見するまでには何週間かかかったみたいです。救援隊がついた時には操縦士の士官はきちんとした姿で機中で亡くなったいました。そして操縦席や機体には一面に部下のことや家族のことを思いやることやこれからの日本航空隊への提言などが書き残されていたことが新聞で報道されました。その時の悲しかった思いがはっきりと今でもはっきりと覚えて居るんです。
昨年の12月ふらりと思い立って小立岩を日帰りに訪れました。大原の入口の左にこんな墓石がありました。
http://art21.photozou.jp/pub/545/2472545/photo/248827889_org.v1498284248.jpg
墓石の碑面には
[平野家] 「今此処に生あることを故郷の山河と父母に感謝し久遠の彼方に礼拝□するものなり」
と記されていました。
私はこのような美しい言葉を墓碑に刻む故郷の人の貴い心に感動してしまいました。
大桃・小立岩・大原、私の故郷はすばらしい処です。私の心の誇りです。
(1)伊南村史 第5巻資料編
歴史資料「温故知新」
「寛永19年ノ秋より同弐拾年春迄ニ 越後國へ走り百姓大分ニ有之也。古町村者共も寛永弐拾拾年末ノ正月晦日之晩、半分程妻子引連走り候、小立岩村よりあごし俣沢へ入り白峯銀山へかかり、越後國へ出、越後ニてハ方々ニ住居致」
「温故知新」佐野外記著
天正17年伊達政宗の会津侵攻から筆を起こし、久川城(伊南村青柳)の攻防とその変遷、その時より元禄8年まで108年間の歴史的事件が記してあるこの地域における貴重な歴史的資料である。
天正17年・・・1587年
寛永19年・・・1642年
元禄8年・・・・1695年
(2) 昭和13年2月18日、銀山平の片貝沢に陸軍機墜落!ブログ「雪降る町 うおぬま」さんより無断拝借(お許しください)
70年前の今日、埼玉県にあった熊谷飛行学校から飛び立った陸軍機が 厳冬期の銀山平に墜落した。 対ソ連戦に備えての耐寒訓練がったが、 大寒波のため操縦レバーが凍結し操縦不能に陥ったためだった。 乗組員7人は全員死亡したが、特に笠井少佐は猛吹雪の中で7日間生存し、 機内壁面、地図、カメラのケースの裏にまで家族等に遺書を残していた。 それから70年の月日が流れ、今日は有志による「慰霊の日」
「殉難之碑」という石碑が建っている。
70年前のこの年は 特に雪が多かったという。
銀山平の積雪は4,5mとも5,6mとも
言われている。
笠井少佐の家族に当てた遺書は人々の涙を誘った。これは遺書の一部.
「妻子へ
第六日の朝が来た 大雪だ
飛行機が埋まってしまった
見込みなし 昨日とうとう一歩も動けず引き返した
寒と餓に不堪 次第に衰弱し来れり
早く霊となり御身等のところにゆく
みっちゃん、幽子、俊毅、陽子、節子、成典よ、
いつもそばについて居る」
「愛妻のみち子
強かれ、正しかれ、清かれ」
寛永20年正月晦日と言えば旧暦でしょうけど真冬ですよね、そんな厳しい冬の時期に古町からたくさんの人たちが妻子を連れて安越又川に入り銀山平に至り越後に逃散する。
小立岩には「冬山のえいは七谷を越える」という怖い
いい伝えがありましたよね。冬山の表層雪崩は七谷を越えて襲いかかる、冬山は恐ろしいと言うことなんですね。
安越又川から銀山平に至るには地図を見ると高い山々の尾根を越えなければならないようです。そんな道のない道の冬山を越えて一家をあげて越後に逃散する、そんなことを考えると当時の奥会津では過酷な圧政が行われて居たことがわかります。
昭和13年は私の小学校5年の時でした。記憶が鮮明なわけです。改めて家族に残された遺書の文章を読み胸をうたれました。銀山湖には殉難の碑があるんですね。
貴重な資料本当に有り難うございました。心が晴れました。
さぞ不便な苛酷な小立岩は懐かしい豊かなふるさとでした。こんな素晴らしいふるさとと比べ、いくらか若輩なれど、自分の小さいころの体験がなんと薄っぺらいことか、そして人生の豊かさを思っています。