この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年の町村制施行により、久米(くめ)村と譲羽村が合併して久米村が発
足する。のち太平洋戦争最中の1942(昭和17)年、徳山市に編入されて久米村が消滅す
る。(歩行約3.6㎞、🚻米泉湖公園以外なし)
譲羽(ゆずりは)へは公共交通が運行されていないためクルマでの対応となるが、域内への
道路は久米ルートと米泉湖ルートがあり、湖畔を眺めるため米泉湖ルートを利用する。
末武川ダムは1991(平成3)年に竣工したロックフェルダムで、高さ89.5mの多目
的ダムである。
譲羽は末武川支流である譲羽川流域に位置する。地名の由来を地下(じげ)上申は、「先年
いつりは(ゆずりは)の大木有之候様に伝承り申し候、其故を以譲羽と申候哉由来しれ不申
候」とある。
地蔵尊の傍に「右すすま」「左とく山」の道標がある。
道標より奥に数軒の民家があるようだが、この付近に集中して軒を並べる。人口は譲羽
上で10世帯23人、譲羽下で16世帯22人である。
耕作放棄地も見られるが水田も広がっている。
この付近は民家が点在する。
道路改修記念碑と地蔵尊がある所まで下って河内神社に参拝する。
譲羽下との堺付近にある河内神社は、創建年は不明とのことだが、遠石八幡宮の末社で
旧号は河内五社大明神という。
久米との往来道が主要道のようで、こちら側に民家が並ぶ。
久米小学校譲羽分校は、1873(明治6)年譲羽小学として創立し、久米国民学校譲羽分
校、久米小学校譲羽分校へと改称し、1954(昭和29)年現在の校舎が建てられた。しか
し、児童数の減少に歯止めがかからず、2007(平成19)年休校となる。
グラウンドは草地化しているが、鉄棒など運動用具は休校当時のままである。
入口には分校だったことを示す石碑と、玄関上には久米小学校の校章が掲げられている。
久米(くめ)は緩やかな扇状地と三角州からなる平野部に立地する。地名の由来について地
下上申は、往古、豊前国より八幡神が磯辺の石へ影向、これを氏神として祭祀する一方、
その節当村より献上した御久米によるという。(歩行約3.6㎞、🚻駅以外なし)
譲羽とは別の日に久米市を訪れるが、バス路線がはっきりしないため、岩徳線を利用し
てJR周防花岡駅で下車する。
旧山陽道は域内を横断する山陽新幹線と岩徳線に挟まれる中にある。(ここは下松市)
上和田橋で末武川を渡り、桜並木の右岸を下流へ向かう。
和田橋で右折して西進するが、この付近は下松市域。
この川が旧末武村と旧久米村の境になっている。(坂道を上がった付近)
久米峠とされているようだが掘り下げられたようだ。
旧街道筋の家々は更新されて昔日の面影は残っていない。(この家屋のみ)
浄土真宗の順正寺。
緩やかな下り道となるが、道筋の状況は変わらない。
亀甲模様に周南市の市章と文字入りマンホール蓋。
久米市にあった人馬継所や高札場跡は消滅し、神社祭礼の神輿を置く台石が残る。
共楽養育園の敷地内に河野諦円師頌徳碑があるが、園内に入れないため詳細不明だが、
大正期に共楽園を創設した明教寺の住職のようだ。
西光寺川を渡って西進するが、これといった見どころはない。
変則四叉路の角に、1875(明治8)年創業の酒蔵・山縣本店。
人家の敷地内に小さな祠。
下須川の橋を渡り新幹線下を通り抜けると久米から徳山地区に入る。
1942(昭和17)年まで存在した久米村の久米と譲羽地区を散歩したが、発展する久米
と衰退する譲羽という対照的な地域であった。
久米バス停からJR徳山駅に戻る。