この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年町村制施行により、原・樋口・清尾の3村が合併して高水村が発足
する。昭和の大合併で高水・三丘・勝間・八代の4ヶ村が合併して熊毛町となるが、現在
は周南市の一部である。
高水(たかみず)は、烏帽子岳南麓の丘陵地帯および島田川の支流である石光川流域に位置
する。江戸期には樋口の今市に宿が設けられたが、呼坂宿の予備的な存在であったようだ。
(歩行約6.7㎞、🚻駅と寺)
JR高水(たかみず)駅は、1934(昭和9)年徳山~岩国間が全通して山陽本線の駅となる
が、10年後に柳井駅経由が山陽本線に変更されると岩徳線の駅になる。設置当時は高水
村であったため駅名となり今日に至っている。
駅前から山越えをして清尾(せいのお)地区に入る。島田川上流である石光川流域の低地お
よび丘陵地に位置する。地名の由来は、高水権現の社頭が多くあり、清浄なる月並みの行
事を執行し、夫婦岩の尾崎に社を設けたので清尾になったと伝える。
河村□□翁之碑と読めたが功績は知り得ず。
夫婦岩は高水神社裏の清尾山山頂にある2つの巨大な石で、共に高さ8m以上に及ぶ。
熊野権現をこの地に勧請した折の影向石と伝えられ、修験道では大日如来として礼拝され
たとも伝わる。(左前方の山頂)
真言宗善通寺派の三光寺は、高水神社の7坊の1つであった三蔵院跡に開山する。(19
49(昭和24)年設立)
域内には百余体の諸仏をはじめ豆地蔵、周南七福神とされる弁財天が祀られている。
高水神社入口の向い側に「河村先生之碑」があり、2つの「河村碑」が存在するが、河
村なる人物の一人に河村道篤(1842-1920)という人がいる。
1889(明治22)年高水村が発足すると初代村長に推され4ヶ年にわたって務める。の
ち、1898(明治31)年に高水村塾が設立されると、初代塾長に就任して15年間その職
を全うする。
高水神社参道には155基の石燈籠が並ぶが、御田頭祭(7月中旬)には献灯される。1
625(寛永2)年の古文書によると、参道で流鏑馬が行われていたとか。
平安期の天徳・応和年間(957-964)に紀州熊野三所大権現を勧請し、この地に社を建立し
て高水三所大権と称した。明治の太政官通達により権現号を廃止し、「高水神社」と改め
る。
高水神社より約150m先に宍戸家の家老だったされる家があるが、樹木と草に覆われ
て近づくことができない。
夫婦岩を見返り、岩徳線の函渠を潜ると樋口地区。烏帽子岳南麓の丘陵地帯および島田
川の支流である石光川上流域に位置する。地名の由来について風土注進案は、往古、樋口
某という人が居住したことに因むという。
旧山陽道を左折して今市新町筋を進むと、正覚寺山門前に出る。門前に宮川視明が開い
た磨鍼塾(まんしんじゅく)という私塾があったが、1880(明治13)年に没すると後継者が
なく中絶する。
1898(明治31)年4月塾出身者3名が発起して正覚寺敷地内に高水村塾を開設する。
後に高水中学校、新制高水高校と変遷したが、時代は農村部における私学経営を揺るがし
はじめたため、1954(昭和29)年岩国市へ転出して現在の高水学園となる。
手前は中所括襄(なかじょかつじょう)先生頌徳碑。優秀な人材を徳修館に送って学ばせたと
いう。
奥側は塚本与十郎顕彰碑で、明治初期に萩で竹細工の技術を習得し、地元の人たちに現
金収入の道を拓いた。
正覚寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)三丘の給領主であった宍戸就尚の室(正覚院)菩
提のために建立された。
1798(寛政10)年に建立された山門。
今市橋を渡ると今市宿に入るが、西隣の呼坂宿までわずか半里(約2㎞)と近い距離に宿
場が設けられた。東隣の高森宿の間に中山峠があり、峠越えの準備や越えてきた人たちの
休憩のため設置された。九州の大名が時々小休憩したが、本陣がないので正覚寺あるいは
岡田彦左衛門の屋敷が当てられたという。(なまこ壁の蔵がある一角にかっては有海酒屋が
あった。)
左手に妻入りと平入の商家が並ぶ。中央が酒販売を営む竹本本店であるが、醤油製造を
営まれたこともあるとか。
門のある民家傍に北へ向かう道があり、道標には「北 米川、川越、桑根村約4丁(約
436m)上り 西へ八代、中須村道」と刻字されている。この道が高森の外れから鳴川・
成川を経由して、今市に至る鳴川道(成川道)である。
坂を上がって行くと右手に碑があるが、「長谷川‥」までは読めたが以下は読めず。
長い上りが続く。
正面に山陽新幹線、右手に高水小学校が見えてくる。
大歳神社について風土注進案には、出雲大社より勧請されたとあるが年月日は記されて
いない。
中央に旧熊毛町の町章に「くまげ・おすい」、その周囲にナベヅルが描かれたマンホー
ル蓋。
道標まで戻って西進する。(町田酒店付近から見返る)
何が祀られているかわからなかった。
今市の西外れから少し上り坂となる。
その先でJR岩徳線の辻堂跨線橋を渡る。