よく私が言うたとえ話に、
毎年選ばれるノーベル賞の中身をきちんとわからないのに、人類がすべてを知るなんて無理
という論がある。
毎年のノーベル賞を選ぶ選考委員でも無ければ理解なんかできない。
選考委員であったとしても全部を理解しているのか…
全知全能になれるという考えそのものが、まったくもってありえない。
他人の今まで経験した視覚嗅覚聴覚味覚触覚や体を構成する全感覚のすべてを経験することはできない。
特に死に直面した際の、あるいは死ぬときの肉体情報を経験する気にもなれない。
死の感覚や思考を共有したら、死ぬしかない。
他人のことをすべて理解しようなんて、これもまた大変な思い上がりだと思う。
また、日本のすべてを理解できるか?もありえない。
長く住んでいる故郷でさえ、長く住んでいる家でさえ、その隅々まで踏破し、すべてを子細に観察することはできない。
顕微鏡で詳細分析なんかしていたら一生かかっても無理。
それでなくても人為的、非人為的に変化する。
海外でも国内でも旅行して大きな文化の違いにカルチャーショックを受けることはできても、その文化がどうやって成立したのか、過去に起こった出来事は推測するしかない。
「もし世の中のすべてを理解できたら」
という仮説で話を持ちかけられることがあってですね。
そもそもそんなことは100%無理だってことは確実に言えるわけです。
高校大学初頭時に、全教科ほぼほぼ100点を叩き出しても、結局知らないことのほうが多いという事実に気づくわけで。
人類知すべてを合わせても、この世の中の数%を理解していればすごいんじゃないでしょうか?
宇宙の果ては観測できないし、観測データをもとに想像で予測するしかないように、自然現象も突き詰めればよくわからない。
仮にですよ?
一時間先、一週間先、一ヶ月先、一年先、自分がどこでどのような格好でどのような姿勢でいるかは予測できない。
ある程度の予定や計画をたてて、どうなっていてほしいかとか、そういった希望はありますけれどね。
ノストラダムスの大予言に憧れる気持ちもわかりますけれど。
大体100%未来を予測できるとすれば、あらゆる賭け事は成立しないわけですよ。競馬もパチンコも。
ところがその予測できない未来を予測しようというのが、人類の文化や文明で。
理性的に理論構築してコツコツ計算しますよ。もちろん様々な外乱要素や妨害も含めて。
ところが実際は自然災害も起これば、病気の蔓延も起こるし、戦争やらの人的な災害も発生する。
そこまで予測しようっていうのが人類の目的でもあるんですけれどね。
なかなかに難しいことですよ。