幕末の大政奉還、鳥羽伏見の戦いの後、官軍や公家の間では徳川家の処分が論議されていました。
時の将軍慶喜の一橋家時代の側近達は、慶喜の助命を求めて同盟を結成、後に彰義隊と称して徳川
家の霊廟の警護などを目的として上野の山(東叡山寛永寺)に立てこもった。慶応4年5月15日朝
大村益次郎指揮の東征軍は上野の山を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走しました。
戦死者の墓とあります。
彰義隊の遺体は上野の山に放置されましたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって荼毘に付されま
した。この墓石は、元彰義隊の小川興郷らによって造立。彰義隊は明治新政府にとって賊軍であるた
め、旧幕臣の山岡鉄舟の筆にて、単に「戦死者の墓」と刻まれています。この墓から南へ約100m
の位置に西郷さんの銅像があり、運命でしょうかね。
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