![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/15/3a4f0a2f3182d5622f1594782a3d1698.jpg)
大友良英さん!と言えば、「あまちゃん」で超有名になられたが、もともと映画音楽の第一人者。映画は大体が一回の鑑賞だろうから、それほどの強いインパクトはないかもしれない。しかし、朝ドラのテーマソングになったら、ほぼ半年、毎日、毎日、耳にすることになる。これほどの大きなインパクトはないのでは!いまだに「おはなはん」のテーマは頭に残っている。
そんなこんなもあって、誰でもその名を聞いて、「あ~、『あまちゃん』の!」と言うのは、思う存分利用してほしい!なぜなら、素晴らしい音楽だから。内臓に残る音楽だ。・・・・変な表現。。
その大友さんが、当地の大学の講師として招へいされ、その縁で「その街のこども」の上映と、大友さんのお話を聞けることになった。これは楽しみ!おまけに映画は、上映の時にいろいろと忙しく、見逃してしまった作品。ラッキー!ということで、鑑賞です。
登場人物は、未來君演じる建築家の勇治と、抜群のスタイルの(当然!)サトエリこと美夏。阪神・淡路大震災の15年後、今まで心に引っ掛かりながら、東京に移り住んでる彼らは、どちらもあの場所に行けてなかった。
二人は、それぞれ、自分の思いを抱きながら、15年目にして、あの場所に行こうとする。勇治は出張広島に行こうとする途中、思い立ったように神戸に降り立つ。そして、『追悼のつどい』に参加しようとしていた美夏と出会う。
小学4年と、中学1年のときに、それぞれ地震を体験した二人。それぞれが複雑な思いを抱いていた。やむをえなかった事情、偽ってきた今までの人生、死んだ行った人に対する鎮魂の思いと、贖罪の気持ち。
あの時間まで、二人は夜の街を歩きながら、心の澱を吐き出すように思いを伝えて行く。。。
2010年1月17日に、NHKで放送されたドラマ。そのあと、劇場版として再編集され、2011年の冬に劇場公開された。当時、見れなかったもので、いつか見たいなあと思っていたところ、音楽を担当していた大友さんをお呼びしてのトークつきという、願ってもないありがたいプログラムとなった。ありがとう。
さて、映画は二人のとりとめないの会話や、心の中に押しとどめていた思いをとつとつと語り出していくさまが、やけに自然で、何のとっかかりもなく、見ている方に入ってくる。じわじわくる。きっと、あのつどいに集まっている人たち、皆それぞれに思いがあり、悔恨があり、祈りがある。それらの思いは一体どこにやったらいいのか。いや、どこにもやらずに自分の中に押しとどめておくのがいいのか、それはわからない。
でも、彼らにしか分からないものがある。それを共感でき、語ることによって、一歩前に踏み出すことができるなら、それは心からいいことだと思う。そんなほんのりとした前向きの気持ちが表れていた。しかし、そんな気持ちになるまでに、15年と言う時は長い。でも、傷は癒えないことはない。そんなことを思いながらの鑑賞だった。
そして音楽。常々、映画音楽が映画のものすごい重要な意味合いを持っていると思う持論だが、邪魔になってはならない。でも、なくてはならない。もし、この場面に音楽がなかったらこの映画はどうなってるだろうか。考える間もなく音が流れてくるが、映像と音楽が見事なコラボを見せたとき、その絵は絵だけの表現ではなく、何十倍にも見事なものになる。
時に、邪魔なくらいの大きさで、あるいは神経に障るくらいの音で、絵の持つ表現を倍増させる効果もある。この人のこのタッチの音楽が、映画と見事にマッチングした時は、思わずガッツポーズをとりたくなる時もある。音楽の持つ偉大な力だ。
この映画の音楽は、うるさいくらいに全編流れていた。いつもなら、聞き流してしまうような曲調だったりするものが、やけに引っかかる。物語に集中すべきところに、ついつい耳が音楽を追っていた。それはそれでいいのだが、正しい見方ではなくなってしまっている自分がいた。こういう企画だったから、そういう耳になってしまったのが、いいことだったのか、悪いことだったのか、判断がちと難しい。
どっちにしろ、大友さんの曲だった。なんか耳になじんでいる。
さて、大友さんのお話。とっても興味深く、面白いお話で、満足。映画は、どちらも実年齢で、実際に地震を体験した二人が出演したとこのこと。作られたものには違いないのだが、自然で、二人の会話をそのまま撮り、ぶれるカメラもセミドキュメンタリータッチになっているのも、こうやって見てみると、きっちりとまとまっている。
で、この映画が公開されたすぐ、そう、すぐ後に起こったのが2011年の3月11日のこと。福島で子供の時に過ごした大友さんは、現地に入り、とにかくなんとかしないとならない!との気持ちから、いろんな活動を行っていた。それは人として当然な気持ちで、いても立ってもいられない、という思いからだったそうな。
その、いてもたってもいられない!!という気持ちは、この物語の監督の井上剛さんも、クドカンも思っていた。そのときから「あまちゃん」の構想がはじまったとのこと。なるほど。震災があったからこその物語で、震災に向かっている話なのだが、それはこの「この街のこども」がなかったら、「あまちゃん」はなかったということだ。
あまりにきつい話で、あまりにとんでもない。人は忘れちゃいけない!という。でも、あまりにきついことは、忘れてもいいんじゃないかと、大友さんは語る。とんでもことは忘れていい。ただし、忘れてもいいから、そのことについて、考えて行くべきだ。そこは大事。
「あまちゃん」は、どんなにか楽しく、笑い、泣き、うきうきとした気持ちにさせてもらった、向かうところは震災のあの日。どこをどうやっても、あの時に向かって行かざるを得ない。でも、震災に向かって生きて行くのではない。生きていたら、それがあった。そういうことだ。これはあくまでもドラマ。ドラマなんだということを忘れてはいけない。現実は厳しい。とんでもなく厳しいけど、15分の過ぎ去るお祭りじゃないか!それが朝ドラの役割なんだ。
そう思ってあのテーマソングを聞くと、また感慨もひとしおだ。
ほかにもいろいろと、オフレコのお話もあって、とっても有意義な時間を過ごさせていただきました。ありがとうです、大友さん。出来れば、軽く、ライブ的に生音楽も聞きたかったな~。
最後に、お決まりのサインをいただきまして、お開き。握手をしたいただきましたが、とっても柔らかいお手手でした。私、大友さんの音楽は、クストリッツアっぽいなあと感じていたのですが、一応直接に「クストリッツア、お好きですか?」と、厚かましくもお聞きいたしました。「好きですよ」とのお答え、なか嬉しかったです。
こちら、大友さんのサイン入り、パンフです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a9/8562d24d432ba8d9756236ca53b8ff63.jpg)
◎◎◎○●
「その街のこども」
監督 井上剛
出演 森山未來 佐藤江梨子 津田寛治
そんなこんなもあって、誰でもその名を聞いて、「あ~、『あまちゃん』の!」と言うのは、思う存分利用してほしい!なぜなら、素晴らしい音楽だから。内臓に残る音楽だ。・・・・変な表現。。
その大友さんが、当地の大学の講師として招へいされ、その縁で「その街のこども」の上映と、大友さんのお話を聞けることになった。これは楽しみ!おまけに映画は、上映の時にいろいろと忙しく、見逃してしまった作品。ラッキー!ということで、鑑賞です。
登場人物は、未來君演じる建築家の勇治と、抜群のスタイルの(当然!)サトエリこと美夏。阪神・淡路大震災の15年後、今まで心に引っ掛かりながら、東京に移り住んでる彼らは、どちらもあの場所に行けてなかった。
二人は、それぞれ、自分の思いを抱きながら、15年目にして、あの場所に行こうとする。勇治は出張広島に行こうとする途中、思い立ったように神戸に降り立つ。そして、『追悼のつどい』に参加しようとしていた美夏と出会う。
小学4年と、中学1年のときに、それぞれ地震を体験した二人。それぞれが複雑な思いを抱いていた。やむをえなかった事情、偽ってきた今までの人生、死んだ行った人に対する鎮魂の思いと、贖罪の気持ち。
あの時間まで、二人は夜の街を歩きながら、心の澱を吐き出すように思いを伝えて行く。。。
2010年1月17日に、NHKで放送されたドラマ。そのあと、劇場版として再編集され、2011年の冬に劇場公開された。当時、見れなかったもので、いつか見たいなあと思っていたところ、音楽を担当していた大友さんをお呼びしてのトークつきという、願ってもないありがたいプログラムとなった。ありがとう。
さて、映画は二人のとりとめないの会話や、心の中に押しとどめていた思いをとつとつと語り出していくさまが、やけに自然で、何のとっかかりもなく、見ている方に入ってくる。じわじわくる。きっと、あのつどいに集まっている人たち、皆それぞれに思いがあり、悔恨があり、祈りがある。それらの思いは一体どこにやったらいいのか。いや、どこにもやらずに自分の中に押しとどめておくのがいいのか、それはわからない。
でも、彼らにしか分からないものがある。それを共感でき、語ることによって、一歩前に踏み出すことができるなら、それは心からいいことだと思う。そんなほんのりとした前向きの気持ちが表れていた。しかし、そんな気持ちになるまでに、15年と言う時は長い。でも、傷は癒えないことはない。そんなことを思いながらの鑑賞だった。
そして音楽。常々、映画音楽が映画のものすごい重要な意味合いを持っていると思う持論だが、邪魔になってはならない。でも、なくてはならない。もし、この場面に音楽がなかったらこの映画はどうなってるだろうか。考える間もなく音が流れてくるが、映像と音楽が見事なコラボを見せたとき、その絵は絵だけの表現ではなく、何十倍にも見事なものになる。
時に、邪魔なくらいの大きさで、あるいは神経に障るくらいの音で、絵の持つ表現を倍増させる効果もある。この人のこのタッチの音楽が、映画と見事にマッチングした時は、思わずガッツポーズをとりたくなる時もある。音楽の持つ偉大な力だ。
この映画の音楽は、うるさいくらいに全編流れていた。いつもなら、聞き流してしまうような曲調だったりするものが、やけに引っかかる。物語に集中すべきところに、ついつい耳が音楽を追っていた。それはそれでいいのだが、正しい見方ではなくなってしまっている自分がいた。こういう企画だったから、そういう耳になってしまったのが、いいことだったのか、悪いことだったのか、判断がちと難しい。
どっちにしろ、大友さんの曲だった。なんか耳になじんでいる。
さて、大友さんのお話。とっても興味深く、面白いお話で、満足。映画は、どちらも実年齢で、実際に地震を体験した二人が出演したとこのこと。作られたものには違いないのだが、自然で、二人の会話をそのまま撮り、ぶれるカメラもセミドキュメンタリータッチになっているのも、こうやって見てみると、きっちりとまとまっている。
で、この映画が公開されたすぐ、そう、すぐ後に起こったのが2011年の3月11日のこと。福島で子供の時に過ごした大友さんは、現地に入り、とにかくなんとかしないとならない!との気持ちから、いろんな活動を行っていた。それは人として当然な気持ちで、いても立ってもいられない、という思いからだったそうな。
その、いてもたってもいられない!!という気持ちは、この物語の監督の井上剛さんも、クドカンも思っていた。そのときから「あまちゃん」の構想がはじまったとのこと。なるほど。震災があったからこその物語で、震災に向かっている話なのだが、それはこの「この街のこども」がなかったら、「あまちゃん」はなかったということだ。
あまりにきつい話で、あまりにとんでもない。人は忘れちゃいけない!という。でも、あまりにきついことは、忘れてもいいんじゃないかと、大友さんは語る。とんでもことは忘れていい。ただし、忘れてもいいから、そのことについて、考えて行くべきだ。そこは大事。
「あまちゃん」は、どんなにか楽しく、笑い、泣き、うきうきとした気持ちにさせてもらった、向かうところは震災のあの日。どこをどうやっても、あの時に向かって行かざるを得ない。でも、震災に向かって生きて行くのではない。生きていたら、それがあった。そういうことだ。これはあくまでもドラマ。ドラマなんだということを忘れてはいけない。現実は厳しい。とんでもなく厳しいけど、15分の過ぎ去るお祭りじゃないか!それが朝ドラの役割なんだ。
そう思ってあのテーマソングを聞くと、また感慨もひとしおだ。
ほかにもいろいろと、オフレコのお話もあって、とっても有意義な時間を過ごさせていただきました。ありがとうです、大友さん。出来れば、軽く、ライブ的に生音楽も聞きたかったな~。
最後に、お決まりのサインをいただきまして、お開き。握手をしたいただきましたが、とっても柔らかいお手手でした。私、大友さんの音楽は、クストリッツアっぽいなあと感じていたのですが、一応直接に「クストリッツア、お好きですか?」と、厚かましくもお聞きいたしました。「好きですよ」とのお答え、なか嬉しかったです。
こちら、大友さんのサイン入り、パンフです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a9/8562d24d432ba8d9756236ca53b8ff63.jpg)
◎◎◎○●
「その街のこども」
監督 井上剛
出演 森山未來 佐藤江梨子 津田寛治
とんでもなく有名な方なのに、普通の人。
いい時間を過ごさせてもらいました。
森山&サトエリさんも良かった!
いろんなことを体験してきたバックボーンがいいです。
映画も、じわじわきました。
あの時見てたら、また違った感じで見てたんでしょうね。
いろいろと考えてしまいました。