
日本人の美徳、、、、と言われることがある。
奥ゆかしい。
礼儀正しい。
礼節がある。
忍耐強い。
真面目である。。。。。。
こんなところだろうか。だからいい!と手放しあげつらうわけではないが、これが普通にできてる日本人だったからこそ、日本人と言える自信となっていたように思う。それがいつのまにやら、どこかに雲散霧消してしまったような。。。特に、礼節と忍耐なんてのは、あまり見ない。いや、探せないだけかな。
じゃあ、日本人の日本人たるゆえんは?と言われると、どう答えたらいいか。上に述べたようなもんがなくとも、日本人だから!でいい。上のどの項目がなくとも、紛れもなく日本人であり、堂々と「私は日本人だ!」と、何のはばかりもなく言うことできる。
ではこの人たちは何と言ったらいいのか!堂々と胸を張って、わたしは○○人だ!と言えるの。どうにももやもやの残る、数奇な複雑な人生を送ってきた方々。紛れもなく台湾人だが、その日本人ぶりにこっちとしては、申し訳なく、また居住まいを正して、彼らの言葉を拝聴するしかない。そして聞かずにどうする!ぜひとも受け止めるべき言葉であった。
高菊花さん 1932年生まれ

ツオウ族と言う台湾の原住民の家系。父親がツオウ族のリーダーで、台南師範学校で学んだエリート。いわゆるインテリである。警察官や教員を務め、日本人として戦争中を生きた。しかし、戦後、日本の統治が終わると、原住民の自治を主張すると、大陸からやってきた国民党に目をつけられる。結果、逮捕され、拷問され、銃殺されてしまった。
その姿をずっと見てきた菊花さんは、家族の生活を支えるために、歌手となり、国民的なスターになる。しかし、国民党にとって目障りな存在であるために、おりあれば尋問され、あることないこと強要される。
自分は家族のために働いているだけなのに、言われもない自白を求められ、生きていくためにそれを認める。自首証というものにサイン。。。それによって、やっと自由の身となったという。
そう考えると、幸せだったのは日本の統治下だったときになるんだろうか。お生まれになった時は、すでに日本の植民地となっていたので、その前は比較のしようがない。でも、それでも穏やかで、家族一緒に、大好きな歌を歌い、憂いなく暮らしていた。
国民党の支配時代、壮絶人生を送ったと思うが、さらっと穏やかに、そしてしなやかに語る菊花さん。素敵なおばあちゃんだった。
黄茂己さん 1923年生まれ

これまたしなやかな爺さん。90歳の今でも、しゃんと背筋が伸びて、すっすと歩く。戦時中に日本に来て、工員として働いた後、日本人の女性と結婚して台湾に戻る。小学校の教員を務めあげた。その間がいわゆる『白色テロ(*1)』の時代。多くの仲間が捕えられ、殺されてしまったと物静かに語る表情は穏やかだ。
とんでもない戦争中を潜り抜け、妻に出会えたことを心からいとおしんでるように語る。しかし、故郷で待っていたのは、恐怖政治だったという地獄。今、すべてを省みて、語る言葉は重すぎる。
鄭茂李さん 1927年生まれ

菊花さんの親せきにあたる。戦争中は志願兵として海軍兵に。それこそが誇りだったんだ!と、言う口調は、自信に満ちていて、そしてまた悔しさにあふれていた。紛れもなくあの時、日本人だった。しかし戦争は負けた。それは台湾を解放した!と言うのではなく、自分たちも負けたんだ。。。という忸怩たる思いがにじみ出ていた。
わたしの死んだ爺さんが思い浮かんだ。
呉正男さん 1927年生まれ

中学生の時に日本にやってきて、そのまま日本に在住。陸軍に入って、朝鮮半島で敗戦を迎えた。そのままソ連軍に抑留され、2年間強制労働を強いられる。やっとのことで日本に戻る。日本国籍でない生存者は10人くらいだったという。台湾に戻ろうとしたが、二二八事件(*2)の真っ只中で、父親から帰るな!と言われる。
華銀に就職して、横浜で暮らしてきたが、ずっと日本にいることだし、帰化申請でもしようかと。。。長年日本にいて、戦争にも参加して、収容所暮らしもした。何の問題もなく帰化できるだろうと思ったら、けんもほろろだったという。日本人の情けなさにうんざりさせられる。でも、それすらも許容する呉さんの大きさと言うか、しなやかさと言うか、とんでもない経験をさらっと何事もなかったかのように語る姿を見てるだけで、胸が詰まった。
張幹男さん 1930年生まれ

台湾人と日本人の両方の血が流れている。『白色テロ』で、火焼島と言う島にあった政治犯収容所に8年間投獄される。どうにかそこでやり過ごした後、日本語ガイドとして旅行会社で働く。でも、政治犯としてのレッテルが貼られていては、なかなか働き口もない。おsこで張さんは自ら旅行会社を立ち上げ、自分と同じ政治犯の人たちをどんどんと受け入れた。
今は、大きな会社となって会長になっている。いやーーー、こういう人物こそが男気があると言うべき。後日談に張さんは映画の出演を許諾してくれなかったらしい。自分じゃなくても、もっともっと島から帰ってきた人はいるだろうと、うんと言ってくれなかった。しかし、監督は粘りに粘って、拝み倒し、杯を重ね、出演となったとか。
こんなすごい方のお話聞けたうれしさ。監督に感謝。張さんに感謝である。
宮原永治さん 1922年生まれ

もちろん日本兵として、戦時中は各地を転戦。敗戦時はインドネシアにいた。そのままインドネシアで過ごすことになったが、今度はインドネシア独立運動に参加。オランダからの独立戦争を戦った。
台湾で生まれ、日本人として育ち、台湾人に戻り、そしてインドネシア人となる。まさに時代に翻弄された人生。あの時、台湾生まれてしまったがためにたどった数奇な人生を想像するだけで、頭が下がる。
宮原さんに見たのは、こうやって生きてこれたのは、日本人として過ごしたことが矜持になっているということ。死ぬときはインドネシア人としてだが、あくまでも自分には日本人としての矜持がある!こんなことを胸を張って、誇れる日本人がいるだろう。それはどの人に言えることだったが、正真正銘の日本人として、とにかく情けなく、恥ずかしくなった。
こんな素晴らしい人の人生をめちゃくちゃにしたのは、かつての日本であり、抗いがたい歴史であるが、それをのりこえ、受け入れ、しなやかに生きてる姿に、本当に感動した。見れてよかった。はるばる、仙台にまで行って、時間を間違え、夕ご飯を亭主に頼み、どうにかして見た甲斐があったというもん。ありがとうございました。
◎◎◎◎○●」
「台湾アイデンティティー」
監督 酒井充子
上記のわかりにくい言葉に注記をつけました。文章は公式パンフレットからお借りしました。
*1 白色テロ
革命運動や民主化運動などの反体制活動に対する為政者による弾圧行為のこと。強権的警察行為や言論弾圧をさす。台湾では、国民党政府により1949年から1987年まで38年間にわたる戒厳令が敷かれ、この間に数多くの人々が謂れなき罪で逮捕、拷問、銃殺された。恐怖の空気が社会船体を覆い、台湾社会の発展に重大な影響を与えた。(公式パンフレットより引用)
*2 二二八事件
1947年2月27日の夜、中国人である国民党の専売局闇タバコ摘発隊が台湾人女性に対し、暴行を加える事件が起きた。これに抗議した群衆に向って摘発隊が発砲し、一人を殺害。これに対し、翌2月28日に台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊が非武装のデモ隊に向けて無差別に一斉射撃を行い、多数の市民が死傷。これが発端となって政府関連の諸施設への抗議行動や、中国人に対する襲撃事件が台湾全島で頻発。台湾人はラジオ放送局を占拠するなど、多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸に援軍を要請し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。この際、裁判官、医師、役人をはじめ、日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多くが逮捕、投獄、拷問され、その多くは殺害された。この事件によって、約2万数千人の台湾人が殺害、処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたといわれる。(公式パフレットより引用)
奥ゆかしい。
礼儀正しい。
礼節がある。
忍耐強い。
真面目である。。。。。。
こんなところだろうか。だからいい!と手放しあげつらうわけではないが、これが普通にできてる日本人だったからこそ、日本人と言える自信となっていたように思う。それがいつのまにやら、どこかに雲散霧消してしまったような。。。特に、礼節と忍耐なんてのは、あまり見ない。いや、探せないだけかな。
じゃあ、日本人の日本人たるゆえんは?と言われると、どう答えたらいいか。上に述べたようなもんがなくとも、日本人だから!でいい。上のどの項目がなくとも、紛れもなく日本人であり、堂々と「私は日本人だ!」と、何のはばかりもなく言うことできる。
ではこの人たちは何と言ったらいいのか!堂々と胸を張って、わたしは○○人だ!と言えるの。どうにももやもやの残る、数奇な複雑な人生を送ってきた方々。紛れもなく台湾人だが、その日本人ぶりにこっちとしては、申し訳なく、また居住まいを正して、彼らの言葉を拝聴するしかない。そして聞かずにどうする!ぜひとも受け止めるべき言葉であった。
高菊花さん 1932年生まれ

ツオウ族と言う台湾の原住民の家系。父親がツオウ族のリーダーで、台南師範学校で学んだエリート。いわゆるインテリである。警察官や教員を務め、日本人として戦争中を生きた。しかし、戦後、日本の統治が終わると、原住民の自治を主張すると、大陸からやってきた国民党に目をつけられる。結果、逮捕され、拷問され、銃殺されてしまった。
その姿をずっと見てきた菊花さんは、家族の生活を支えるために、歌手となり、国民的なスターになる。しかし、国民党にとって目障りな存在であるために、おりあれば尋問され、あることないこと強要される。
自分は家族のために働いているだけなのに、言われもない自白を求められ、生きていくためにそれを認める。自首証というものにサイン。。。それによって、やっと自由の身となったという。
そう考えると、幸せだったのは日本の統治下だったときになるんだろうか。お生まれになった時は、すでに日本の植民地となっていたので、その前は比較のしようがない。でも、それでも穏やかで、家族一緒に、大好きな歌を歌い、憂いなく暮らしていた。
国民党の支配時代、壮絶人生を送ったと思うが、さらっと穏やかに、そしてしなやかに語る菊花さん。素敵なおばあちゃんだった。
黄茂己さん 1923年生まれ

これまたしなやかな爺さん。90歳の今でも、しゃんと背筋が伸びて、すっすと歩く。戦時中に日本に来て、工員として働いた後、日本人の女性と結婚して台湾に戻る。小学校の教員を務めあげた。その間がいわゆる『白色テロ(*1)』の時代。多くの仲間が捕えられ、殺されてしまったと物静かに語る表情は穏やかだ。
とんでもない戦争中を潜り抜け、妻に出会えたことを心からいとおしんでるように語る。しかし、故郷で待っていたのは、恐怖政治だったという地獄。今、すべてを省みて、語る言葉は重すぎる。
鄭茂李さん 1927年生まれ

菊花さんの親せきにあたる。戦争中は志願兵として海軍兵に。それこそが誇りだったんだ!と、言う口調は、自信に満ちていて、そしてまた悔しさにあふれていた。紛れもなくあの時、日本人だった。しかし戦争は負けた。それは台湾を解放した!と言うのではなく、自分たちも負けたんだ。。。という忸怩たる思いがにじみ出ていた。
わたしの死んだ爺さんが思い浮かんだ。
呉正男さん 1927年生まれ

中学生の時に日本にやってきて、そのまま日本に在住。陸軍に入って、朝鮮半島で敗戦を迎えた。そのままソ連軍に抑留され、2年間強制労働を強いられる。やっとのことで日本に戻る。日本国籍でない生存者は10人くらいだったという。台湾に戻ろうとしたが、二二八事件(*2)の真っ只中で、父親から帰るな!と言われる。
華銀に就職して、横浜で暮らしてきたが、ずっと日本にいることだし、帰化申請でもしようかと。。。長年日本にいて、戦争にも参加して、収容所暮らしもした。何の問題もなく帰化できるだろうと思ったら、けんもほろろだったという。日本人の情けなさにうんざりさせられる。でも、それすらも許容する呉さんの大きさと言うか、しなやかさと言うか、とんでもない経験をさらっと何事もなかったかのように語る姿を見てるだけで、胸が詰まった。
張幹男さん 1930年生まれ

台湾人と日本人の両方の血が流れている。『白色テロ』で、火焼島と言う島にあった政治犯収容所に8年間投獄される。どうにかそこでやり過ごした後、日本語ガイドとして旅行会社で働く。でも、政治犯としてのレッテルが貼られていては、なかなか働き口もない。おsこで張さんは自ら旅行会社を立ち上げ、自分と同じ政治犯の人たちをどんどんと受け入れた。
今は、大きな会社となって会長になっている。いやーーー、こういう人物こそが男気があると言うべき。後日談に張さんは映画の出演を許諾してくれなかったらしい。自分じゃなくても、もっともっと島から帰ってきた人はいるだろうと、うんと言ってくれなかった。しかし、監督は粘りに粘って、拝み倒し、杯を重ね、出演となったとか。
こんなすごい方のお話聞けたうれしさ。監督に感謝。張さんに感謝である。
宮原永治さん 1922年生まれ

もちろん日本兵として、戦時中は各地を転戦。敗戦時はインドネシアにいた。そのままインドネシアで過ごすことになったが、今度はインドネシア独立運動に参加。オランダからの独立戦争を戦った。
台湾で生まれ、日本人として育ち、台湾人に戻り、そしてインドネシア人となる。まさに時代に翻弄された人生。あの時、台湾生まれてしまったがためにたどった数奇な人生を想像するだけで、頭が下がる。
宮原さんに見たのは、こうやって生きてこれたのは、日本人として過ごしたことが矜持になっているということ。死ぬときはインドネシア人としてだが、あくまでも自分には日本人としての矜持がある!こんなことを胸を張って、誇れる日本人がいるだろう。それはどの人に言えることだったが、正真正銘の日本人として、とにかく情けなく、恥ずかしくなった。
こんな素晴らしい人の人生をめちゃくちゃにしたのは、かつての日本であり、抗いがたい歴史であるが、それをのりこえ、受け入れ、しなやかに生きてる姿に、本当に感動した。見れてよかった。はるばる、仙台にまで行って、時間を間違え、夕ご飯を亭主に頼み、どうにかして見た甲斐があったというもん。ありがとうございました。
◎◎◎◎○●」
「台湾アイデンティティー」
監督 酒井充子
上記のわかりにくい言葉に注記をつけました。文章は公式パンフレットからお借りしました。
*1 白色テロ
革命運動や民主化運動などの反体制活動に対する為政者による弾圧行為のこと。強権的警察行為や言論弾圧をさす。台湾では、国民党政府により1949年から1987年まで38年間にわたる戒厳令が敷かれ、この間に数多くの人々が謂れなき罪で逮捕、拷問、銃殺された。恐怖の空気が社会船体を覆い、台湾社会の発展に重大な影響を与えた。(公式パンフレットより引用)
*2 二二八事件
1947年2月27日の夜、中国人である国民党の専売局闇タバコ摘発隊が台湾人女性に対し、暴行を加える事件が起きた。これに抗議した群衆に向って摘発隊が発砲し、一人を殺害。これに対し、翌2月28日に台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊が非武装のデモ隊に向けて無差別に一斉射撃を行い、多数の市民が死傷。これが発端となって政府関連の諸施設への抗議行動や、中国人に対する襲撃事件が台湾全島で頻発。台湾人はラジオ放送局を占拠するなど、多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸に援軍を要請し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。この際、裁判官、医師、役人をはじめ、日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多くが逮捕、投獄、拷問され、その多くは殺害された。この事件によって、約2万数千人の台湾人が殺害、処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたといわれる。(公式パフレットより引用)
落ち着いた目線がよかったですね。
彼らの立場だったら自分はどうしただろう、と考えざるを得ない作品です。
歴史の非情な仕打ちとでも言えばいいのか。。。
本当にありがとうございます。こういうのがあるから、やっぱ映画はいいですよね。
はるばる行った甲斐がありました。
運命と言ってしまえばそれまでですが、それでもしなやかに生きてる彼らを見てると、頭が下がります。
勉強になりました。