さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

中村草田男『火の島』

2018年02月09日 | 俳句
 中村草田男の『火の島』を見つけて買って来る。  

ラヂオの銃聲看板さむく相對す    中村草田男

 街角でたまたま店の奥に置いてあるラジオの音が聞こえて来たのである。作り物ではなく、ニュースの中継であろう。看板は商家の生活を暗示する。初句の早口の字余りが、ただならぬ感じを伝えている。制作年月日を確かめたら何に取材したかがわかるが、それはおく。言葉がいきなりこちらを打って来る感じを言いたかった。

三日月へ乙女の聲は落ちず上がる

 これは歌をうたっているのだ。そのようにとりたい。口語脈である。たぶん同時代とこれまでの三日月の句に対して緊迫している。さらに何よりも己の内側の下降しようとする者に対して、緊迫している。

冬濤の最後躍りぬ懸崖へ

叙景句だが、むろんここでも落下願望は猛々しい。危機をのぞきこもうとするロマンチシズムでもある。

優曇華やしづかなる代はまたと来まじ

 昭和の時代を生きている人の実感であろう。優曇華という言葉は、何か永遠性とつながっていくような、尊い仏性のようなものを連想させるところがある。

戰記なれば殺の字多き冬日向

※「殺」に「さつ」と振り仮名。

 この句集の刊行は、昭和十四年十一月。やまない日中戦争が重苦しくのしかかり、戦争の記事は日常の一部と化してもいる。

犬いちご戰報映画観る暇なし

 これを見ると草田男もけっこうあぶないところにいたことがわかる。私が手にしているのは昭和十五年の四版だから、その頃まではまだこのぐらい言っても良かったことになる。次は「火之島三日」と大きく章立てして「伊豆大島行」と小題がある中から。

火の島は夏オリオンを曉の星

火の山は夏富士を前戰を背

※「戦」に「いくさ」と振り仮名。

 火の山は活火山の三原山である。「背」から直接太平洋と対米戦争を読むのは、かえってつまらない。戦のことを忘れて見ている、としたいが、三原山自体が燃える火そのものだから、やはり戦争は離れられない。「爆音と夏日火口に底ごもる」という世界である。

霧ひらけばたゞ柱なす日の噴煙

灼け岩へ杖さしおろし人降りる

満目赭し飛ぶゆゑ蝉は見えしのみ

 嘱目の力作がドキュメントとして並ぶ。おしまいに霧が出ているおかげで虹の贈り物まで見ることができた。

濤音を負ひ火の山の虹を仰ぐ

※「濤」に「なみ」と振り仮名。

 これは、三原山火口の圧倒的な景色によって観念を吹き飛ばし、それによって等身大の作者を取り戻そうとする試みだったろうか。もとよりそうした観念の所有のない現代の大方の読者には、無用の悩みであるかもしれないが、草田男の代の知的な人々にとっては、ほぼ死活問題であった。同時にいまここに引いた作品から安易に反戦の志などは読み取らない方がいいだろうと私は思う。少なくとも行く先を憂えるという関わり方であって、そこを出られない時代の制約があった。そういう緊張感が伝わって来た。直近の週刊誌の記事をみると、四月に開戦の可能性があるという。今日の新聞をみると、政府は韓国滞在者にメールで緊急に安否が確認できる連絡システムの使用を呼びかけるという。破局的な株価の暴落が予想される戦争などもってのほかだが、政権の延命のためには何をしでかすかわからない国の元首が心配だ。「ラヂオの銃聲看板さむく相對す」などという句は見たくない。

 ※今見たら『火の島』が『火の鳥』になっていた。火の、と打ってから、一瞬何か考えたためにこうなってしまった。文章を書く時には眼鏡を外すので、こういうことも起きる。哄笑された方もおられよう。ま、ご愛嬌というところで。 



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