さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山口誓子『遠星』

2018年09月13日 | 俳句
生きているのに毎日が忌日であるような、そんな方がおられる。それなのに、不思議とその毎日を明るくすごしている。それはなぜかというと、短詩型にかかわっているからである。あるいは、文学を読み続けているからである。これが文学、短詩型の効用というものである。これは芸能も同じだ。文学や芸能には拡散作用というものがあるので、そうしたいろいろな気分が伝播し、共感の場に抱きとられやすい。

何かを日々悼む気分で文字を読む(詠む)ような人に親和性の高い俳句というのは、あるだろうと思う。たとえば、山口誓子の『遠星』はどうか。

山口誓子の句集『遠星』(昭和二十二年刊)を読んでいると、海辺で病気を療養しながら日録的に作り続けた作品が、じわじわとこちらの読みの感覚を懐柔して来て、読者も自然と作品のなかでいっしょに生き始めるようなところがある。日々をよろこび、自然の生きものにやさしいまなざしを投げかける作者は、自ずと生き、かつ生かされている。むろん山口誓子らしく核となる自己は確固としてあるのだけれども、どこかで自然の中に自己を溶解させ、「放下」している。そこに尽きせぬ俳句型式自体の持つ魅力があらわれている気がする。

とりわけ小動物、蟹や、ちちろ、ツクツクボウシ、象虫、蟻地獄など、昭和十九年から二十年にかけての日本の海辺に住めば日常的に目にしたであろう生きものたちの姿が印象的である。この頃は猫ブームだが、蟹や象虫や蟻地獄をみてなごむ文化をみんなが取り戻してほしい。こちらは一文もお金がかからないから。

神これを創り給へり蟹歩む

穀象を蟲と思はずうち目守る

直截でへんに構えたところがない即吟、日常吟の集積は、敗戦前後の苦難の日々を、自らも病臥するなかで肯定的に生きた記録ともなっている。その辺をうようよ歩いている蟹に対する作者の気持の寄り方が、何とも慕わしい。

わが見るはいつも隠るゝ蟹をのみ

江の穢れ蟹はいよいよ美しく

 ※「穢」に「よご」と振り仮名。

溝遁ぐる蟹ありわれの行く方へ

 ※「方」に「かた」と振り仮名。

集中には有名な句がいくつもあるから、これを見れば、ああ、という方はおられるであろう。引いておくと、

海に出て木枯歸るところなし

炎天の遠き帆やわがこころの帆

こういう高名な句はそれだけで鑑賞するに値するが、この句集の持つ滋味というものは、千句以上もある句の世界に身も心も浸しながら、作者と同じ目の位置で、触覚的に捉えられた万物、生きとし生けるものの生動するリズムを体感するうちに自ずから伝わってくるものなのである。少年少女の姿も野性的ではつらつとしている。

早乙女ががぼりがぼりと田を踏んで

少年の跣足ひゞきて走りをる

 ※「跣足」に「はだし」と振り仮名。

おしまいに、全体に夏の句が多いので、夏らしい句をいくつか引く。

帆を以て歸るを夏のゆふべとす

くらがりの手足を照らすいなびかり

 ※ 9月17日に至らない文章に気がつき、前文を削除した。


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