さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

年頭所感

2021年01月01日 | 日記
 みなさまにとって今年が良い年でありますように。

 これだけにしておいてもいいのだけれど、新年最初の日記を以下に記すことにする。

 年末に積んでおいた本が崩れたせいもあるが、新年早々に手に取って読んだのが金子光晴の『天邪鬼』(一九七三年大和書房刊)の中の「江戸につながるなにものもなく」という一文である。ここで金子は自分の浮世絵にまつわる回想を縷々書きつけているのだが、江戸の名残りを知っている人の弁だけに、絵に感銘を受けて成立する美感の裏にうごめく集団的な嗜好、露骨に言うなら何に欲情するのかということに対する志向性について、異様なまでに敏感な書き物となっているのである。
 
 などと書いた何時間後に、なぜか手に触れた本が「面白半分」の金子光晴追悼号で、と言うのは、私の部屋の雨戸を開けるには、いろいろな場所に手を衝きながらでないと到達できないので。その雑誌に嶋岡晨先生が追悼文を書いていたのだ。嶋岡先生は、まだ御健在であろうか。と言っても、大学のプロ・ゼミ(ゼミの入門のゼミ)でお会いしただけの縁だが。

 それから何となく手に取ったのが、これも年末の片付けで転げてきたので読んでみようと思った司修の自伝的な小説『版画』である。磁石のように本は本を呼ぶ。この本のはじめの方には、朔太郎の自分の身体を食べて消えてしまう蛸の詩を絵にしたいと思ってかいていた絵の話があり、後半には、歌人の江口きちのことを書いた小説が収められている。

   「宇宙塵のように何もないと思えるところでしか何かは生まれない。」(司修)

 今日は午前中に年賀状の返事を書いてから、「うた新聞」掲載の玉城徹についての文章を書き上げた。それは二月号に出るので興味のある方は http://irinosha.com/ から注文してください。以下は、思いついたことをもろもろ記す。

 年末に本厚木のアミュー厚木の映画館で「キーパー」を見た。主演の男優と女優がとっても素敵で、王道のラブストーリーなのだけれども、深刻な歴史をきちんと踏まえているところが世界中で受けた理由だろう。私のような年代の者は、キメツを見るよりこっちを見た方がいいと思いますよ。ただ事故で子供をなくされた経験のあるような方は、たぶん見ない方がいいと思う。

 最近タイの女性歌手にはまっていて、文字の読み方がぜんぜんわからないので、タイ語を勉強したくなって来た。アルファベットでは panadda という人で、初期の2000年のアルバムが一番いい。国籍不明の音なのだけれども、妙になつかしくて、八十年代に若かった世代向けの音である。バックの演奏に日本人のアルバイトのミュージシャンが加わっていそうな気配もあるのだが、ギターにしろピアノにしろ、こちらの琴線にぐっと触って来る和音を奏でているのである。

 今晩はNHKのEテレで「にっぽんの芸能」の狂言師お二人による「棒しばり」を見たのだが、実におもしろかった。作 わかぎゑふ、とあったが、とにかく大した芸である。
 最近Eテレを失くせばその分NHKの採算が向上すると言った代議士がいるが、文化の維持には金がかかるのである。以前大阪の文楽をいらぬと言った政治家がいたが、それと同じで、経済原則だけを最優先しようとする感性というのは、信じがたいほど貧しいものである。文化がなければ世界からばかにされるということが、何でわからないのか。

 それにしても、近年の日本の美術館の持っている総予算は、信じがたいほど少ないものである。直近の横浜美術館の展示は、そういう予算問題への問題提起にもなっているということを新聞で読んだ。美術館はコロナで委縮していないで、こういう時期こそ団結して声明や要望書を出していくべきである。そうしてこの時期に生きるようなコンセプトを考えて意欲的な企画をしていくべきである。

 公募展も去年はやたらと中止になったが、今年は観客なしでもいいから実施していかないと、画材の売り上げが落ちて、足元の画材店や絵の具の会社の経営が立ち行かなくなってしまう。きちんと支えないと、日本の美術というものが沈没してしまうと思う。

   「宇宙塵のように何もないと思えるところでしか何かは生まれない。」(司修)

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