さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質を見て

2018年04月24日 | 美術・絵画
 東京ステーションギャラリーで開かれている「くまのもの」展に行ってきた。電車の吊り広告で知ったので、間に合ってよかった。5月6日までである。隈研吾は、対談集『つなぐ建築』のなかで、肌理のある都市や建物ということを、アフォーダンスの理論の紹介者である佐々木正人と語り合って居たが、昔の東京駅の煉瓦を間近に見えるかたちで保存している東京ステーションギャラリー自体が、「肌理」のある展示場なので、隈研吾の展示にはまさにぴったりである。
 
 私は桂離宮や日本の茶室の写真をながめるのが好きだが(なかなか行かれるものではないので)、隈研吾の作ったもの、作りつつあるものには、そういう日本の伝統とつながる要素があるということがよくわかって、今度の展示はとてもおもしろかった。実際展示されているもののなかには、現代の茶室への提案がいくつもあった。茶室というのは、煎じ詰めると、少ない構造物によって囲まれた〈場〉、精神的な磁場にほかならないのであって、隈の提案する〈建築〉というものは、周囲とつながりながら、一時的に囲ったり包んだりすることによって生ずる〈場〉を、〈モノ・もの〉によって演出するもの(こと)でもあるのだ。

 私は二月に信濃町駅で下りて建設途中の国立競技場を見に行ったが、全体の感じも高さも周囲と溶け合っていて威圧的ではないし、周囲を圧する宇宙船みたいな建築物にならなくてよかったと心から思ったのである。現状は赤いクレーンの姿も含めて、建築途中の姿がすでにアートそのものである。クリストという建物をまるごと布でラッピングしてしまうアーティストがいたが、建築途中の競技場は、クリストの作品にも似通っていて、「くまのもの」を見に行った人は、ぜひ建築途中の競技場も見に行かれたらよい。できれば人が少ない休日の朝早く。

 建築には、何よりも心のゆとり、余裕、隙間のようなものが大切だ。吹き抜けていること、風が通り、光が通り、周囲の変化に微細に反応してゆくことができる構造物であること。つまり、生きていること。変化の相を映し続けることができるような壁面であったり、天井であったり、ファサードであったりするということが理想だ。だから、これは人間のこころの位置取りにかかわってくることなのだ。隈研吾(的なもの)に示唆されて、日本の建築や都市が変わって行くことが大事である。いま「くまもん」が大人気だけれども、「くまのもの」も人をなごませるような微笑を呼びこすものとなっていくとよい。


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