さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

志垣澄幸『鳥語降る』

2022年07月27日 | 現代短歌
遊ぶ子ら一人も見えぬ三納川ひねもすわれら遊びてゐしに  志垣澄幸

 時間の余裕があると、淡い味わいのある歌を何となく手に取って読んでみる気になる。『鳥語降る』いいタイトルである。作者は引き揚げと戦後の食糧難を知る世代である。子供の頃の川遊びの歌があって、「あとがき」に「まだ少年だった私は近辺の川や山野をかけめぐり、ひねもす遊びほうけていた。だがその体験がどれだけその後の生に彩りを添え、豊かにしてくれたことか。自然との昵懇な歳月は人を豊かにするというが、最近になってあらためて遊びほうけていた日々が貴重な体験であったことをしみじみと感じている。」とある。

 「人間が向き合わなければならないのは、政治や社会、時代や人生だが、もう一つ根源的なものとして自然があると思う。」と続けて書く。

これはごく当たり前のような言葉だが、今の時代はこういう伝統的な日本人の感性というものが、都市に集住する若者たちにはなかなか共有されにくくなっている。そもそも自然の事物を知らないうえに、たとえば子供たちの多くが虫を嫌悪することはたいへんなものである。教室に蜂や蜘蛛などの虫が入ってきたら、私はそれを紙やノートを使って上手に追い出すことができるが、虫の扱いを知らない者は大騒ぎをして飛びのいたり、すぐに殺そうとしたりする。こんな歌がある。

掌に囲ふ蛍の匂ひだしぬけによみがへりたり川の辺に来て

「てにかこう ほたるのにおい だしぬけに よみがえりたり かわのべにきて」と読む。ア行の音韻をみると「イ」音が三十一語音のなかで一〇個ある。つまり三分の一。助詞の「に」が数えてみると三つあって、『古今和歌集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」などイ音の効果的に響く歌と共通の音韻感覚を持つ。イ音の多い歌は、たいていさらりとして押しつけがましくないところがあって、それは作者の歌の特徴でもあるだろう。

短歌の時代が終てたるやうなさびしさに岡井隆の訃報を聞けり
 ※「短歌」に「うた」、「終」に「は」と振り仮名。

 この歌の前には自選五首として帯に印刷されている歌のうちの一つが置かれている。

ペストの世もスペイン風邪の世も照らし今宵は川の中にゐる月

 二首とも初句が一字字余りで、初句の字余りは「うたのじだいが〇」、「ぺすとのよも〇」というように一拍から半拍ほど息をついて感情の高ぶりを漏らす声調として私は読む。そのために続く二句を七五調のリズムとしてより強く感じ取りながら読むことになる。だから「終てたるやうなさびしさに」で小休止、「スペイン風邪の世も照らし」で小休止。二首は内容は異なるが声調的には同じなのであり、岡井隆の亡くなった世と、コロナの流行する世とは、ともに歌の「終てたるやうな」さびしさを同じ時代の事柄として感ずる作者の感慨を歌の調べとして提示するものになっているのである。志垣澄幸の一見すると平凡に見えるかもしれない淡い歌の持つ価値を一般読者のために細かく解説すると、こういうことになる。

空を見ることなくなりし少年らてのひらの中の世界のぞきて

触れ合へる幹は見えねど軋む音竹むらの中に折りをりひびく

戦後よく食べさせられし千切大根旨きものなり今にし食めば

白飯を食ひたけれども食へざりし戦後知る人も少なくなりぬ
 ※「白飯」に「ぎんしやり」と振り仮名。

寒中水泳の少年らの首川の面に数かぎりなく浮きてただよふ

もつれるやうにあまたの脚がうごめきて女子マラソンの一団がくる

 一首目の少年はスマホに夢中。白飯は、ぎんしゃり。今の若い世代にはこの言葉をしらない人もいるかもしれない。おしまいに引いた歌、宮崎県はマラソンの大会がしばしば催される地だ。

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