さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

西巻真『ダスビダーニャ』

2021年09月20日 | 現代短歌
 クラウド・ファンディングで西巻真さんの歌集が出るというから、楽しみにしていた。最近の「未来」誌を見ても、何かすごみを感じさせる歌がある。作家として油が乗り切ったところで第一歌集というのは、いいタイミングだ。と、書いたところで本が見当たらず、一時間以上探してさいごに鞄のなかを見たら、あった。ダスビダーニャ。ロシア語の響きというのは、体のなかをずんと抜けていくような重厚なところがある。握手もしっかりして、がっちり抱き合うみたいな、そういうあたたかさ。西巻さんが欲しているもの、他者に投げかけたいと願っていることばも、そういうものであるのだろう。それを崖っぷちで摑んでいるということが、読んでみるとよくわかるのだけれども、作品はきちんと自立している。むしろ読んだ感触はすがすがしい。読み手の心を自由に解き放つ詩として昇華されたものになっているから、読んでいてとてもいい気分になると言うか、こころが整う。

 鈍痛は夜やつてくるびしよぬれのサッカーボールが頭上を越える

 生きてゐるぼくをまだ呼ぶこゑがする そのこゑの方へぼくは向かふよ

「あとがき」で近年まで選択していた旧仮名遣いの書法について書いているが、たしかにこの歌は旧仮名遣いだからこそ立ち上がってくる雰囲気をまとっている。

 うすら日を浴びてきらめく三月の街は光の墓としてある

 あなたからもらつた朝のシリアルに昨日の祈りのことを聞きたい

どの歌を引いてもいいのである。しずかでつつましいつぶやきが、どれもみなしいんとした透明なかなしみを湛えながら一本筋の通った詩性を見せている。それはまったく生き難い。じつに生き難いという境遇に住み着きながら、自他の生を透視している。これは別に孤独な観照ではないのだ。自分一人が危ういのではない。三月の街ぜんたいが、そこに住む人びとがすでにあやうい。だから「あなたは昨日祈ったのか?」と尋ねるのだ。

 パヴァーヌはそつと途絶えて息だけがつづいた夏の夜の深い場所

 煉炭で死なうと言ひてくれしひと逝きてわれのみあふぐ夏空

 とめどなくほたるほうたるあざやかなひかりのそとへきみをつれだす

三首目にあるような幻惑する死に近接した美的世界から抜け出そうとする客観的な目、これが作者を生かしめて来たものなのだと言える。「きみ」を連れ出す〈私〉は、自分自身をも連れ出すことができる。これは求めて得られるものではないから、もともと作者が持っていた何かであるし、また表現の世界にかかわるなかで得ることができた力であるとも言ってよいだろうか。「おまへは俺と同行できぬ俺が早すぎて俺すら捨ててゆくけふだから」というような歌もある。私がここに指摘したことの傍証となるかと思う。

 つながりが無言のうちにつづくこと怖ろしWebの賑はひにゐて

 わたしは誰のかげであつたかあをぞらを封ずる雲の腹ふとく見ゆ

 三十を過ぎればみんな散り散りに生きる蜉蝣の浮くこの街を

 Googleが護る世界よゆびさきで渋谷は動く地震のごとくに
  ※「見守る」に「まも・る」、「地震」に「なゐ」と振り仮名。

ここでも、スマホの画面のなかの渋谷は、本来の危機的な状態を露呈して作者自身とともに揺れている。人の「つながり」というものが、もともと世界全体と同じように不安定で危ういものなのだ。「わたしは誰のかげであつたか」。これは謎のような問いかけの言葉であるが、この問いに集約されるような答えにくい問いに答えつづけなければならないのが、「病む」という事であると、とりあえず書いてみる。そのことの意味を詩として定着することによって、世界の不条理に幾分かは応答できたとすれば、報われるものはあったとしなければならないだろう。



  

 

 

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