さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

二宮冬鳥のうた

2021年11月23日 | 現代短歌
十一番目。本当に二宮冬鳥はいい歌人だなあ。
日めくり詩歌 短歌 さいかち真(2012/9/17)
投稿日:2012年09月17日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)


板のみちふみて林をいできたる原のうへには万年山が見ゆ
 「万年山」に「はねやま」とルビ。

天つかげあまねくありて龍胆のつねなる色を今日は悲しむ

たたなはるやまなみなべて音のなく光のしたに秋の赤まつ

                 二宮冬鳥歌集『壺中詠草』(昭和六一年刊)より

 「九重山飯田高原」という題の一連から引いた。姿のいい山を遠望するのは、気持ちのいいものだ。私は高所恐怖症のきらいがあるので、山にはのぼらないが、山を見ると、むやみにそれを絵にかきたくなる。この歌集の頃の作者は、七〇歳前後。「龍胆のつねなる色を今日は悲しむ」とあるのは、古語の「愛(かな)し」の気持ちが極まって、本当に「悲しく」なったのだろう。こういう近代短歌以来の自然詠というのは、誰が作ってもそう変わりばえのするものではないが、こうして一つの格調を持って詠まれると、あらためていいものだと思う。

蠟梅のひらくころより心臓の痛みはじまり紅梅のはな

死にしひと夜夜くれば話はなししてけふはそののち目のさめてをり
  「夜夜」に「よるよる」とルビ。

微かなる虫といへどもちかづきて来たりすなはち遠ざかりたり

 作者は心臓を病んでおり、歌集の中には自身の死を思う歌がいくつもある。作者が、常に心がけているもの、それはこの世の「美なるもの」と出会うことである。文字通り「蠟梅」と「紅梅」の間に、私の「心臓の痛み」が挟まれているのである。それを念頭に置いて見ると、故人と対話する歌や、小さな羽虫を詠んだ歌のどちらもが、端的な「美」の表象として立ち現れていることがわかる。
 美的な生き方というものは、あるのだろうか。美をもとめる生き方というのは……。二宮冬鳥は、長崎の原爆の被爆者の一人なのだが、声高にそのことを歌うことはしなかった。近年になって全歌集が出たので、興味のある人はそちらを入手することをおすすめする。

タグ: さいかち真, 九重山飯田高原, 二宮冬鳥, 壺中詠草, 日めくり詩歌, 短歌

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