時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百八十一)

2011-10-13 06:17:32 | 蒲殿春秋
三河国守任ぜられた源範頼が妻と郎党達を引き連れて任国へ向かったのは七月に入ってからである。
無駄な出費を防ぐため、荷駄等は必要最小限のものに止めた。

それでも、国守殿の国入りであるゆえに行列の流れは時間がかかる。

ゆるゆると流れる三河守の行列と早馬にのった武士が行き違ったのは東海道の途中であった。
血相を変えて馬を走らせる武士は傷ついていた。
その人馬は風を切って東へと去っていった。

早馬は真っ直ぐに鎌倉に入る。鎌倉で早馬に乗った使者を乗せた鎌倉殿源頼朝は衝撃を受けた。

都にも早馬がもたらされた。
この知らせを聞いた都の人々は震え上がった。
遠く鎌倉にいる源頼朝とは比べものにならぬくらい彼等は恐怖した。

一方、源義経はこの知らせを冷静に受け止めた。
ここのところの畿内の不穏な動きを熟知していた義経はこのようなことが起きてもおかしくないと常々思っていた。

その義経の手中には兄頼朝からの書状があった。
ーーー兄上からこのような指示があるときに・・・
義経の心の中にその想いが浮かび上がった。

都の人を震撼させた事件とは次のようなものであった。
元暦元年(1184年)七月七日、伊賀国にあって守護としてかの国の治安維持に努めていた鎌倉御家人大内惟義の邸が突然襲われた。
不意を襲われた惟義らだったが、必死に防戦に努めた。
だがしかし、敵の勢いは凄まじく多くの郎党達が討ち取られてしまった。
やむなく大内惟義は邸を捨て逃亡した。

これがこの日に都に届いた報である。同時に早馬が出され鎌倉にも使者が発せられる。

この伊賀国の騒動を聞いた義経は嘆息した。だが、この時点の義経はこの事件の事の大きさを未だに予測していなかった。それよりも義経は手元にある兄の書状による指示が実行できないことを不快に思っていた。
兄の書状には、「西国に出陣して、土肥実平や梶原景時らと共に平家を追討せよ。」と書かれていた。近く院に正式にその願いが奏上されるはずだった。

その義経の邸に院御所への参上を命じる院の使者が訪れた。

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