時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百四十)

2009-12-21 05:43:04 | 蒲殿春秋
寿永三年(1184年)一月二十九日源範頼は大手軍を率いて西国へと出立した。
先に西へと向かっていた軍目付梶原景時は摂津国に入りその沿道の住人達から
人夫を徴収し、また兵糧を徴収しようとした。
だが、飢饉の爪あと残る畿内において兵糧の徴収と働き手である男達のを連れて行かれるは大きな負担になる
抵抗する住人達と鎌倉勢との間にひと悶着が起きた。
が、坂東から用意した兵糧が底をつきはじめ平家との戦いに勝つ為に工作兵の数を増やしたい鎌倉勢は住民たちの抵抗を押し切り兵糧を奪い取りさらに男達を連れて行った。

一方平家側も鎌倉勢の到着に備えて近隣の住民達を徴収する。
そして、戦に備えて生田口の周りを海岸近くから山の裾まで防御の柵を築き始める。
この時代の軍の主力は馬にのった武士である。
その乗る馬の進行を妨げる為に逆茂木などの障害物を築き進行を防いでいる間に矢を射掛けて武士や馬を殺害するのである。
この柵を作る為に近隣の住民達が工作兵として徴収されたのである。
山すそから海岸まで隙間無く作られた柵。
その海岸の先には多くの船が浮かんでいる。

そして、物見が放たれ東からの動きが始終平家首脳部に知らされる。

一方鎌倉勢も物見を放ちこの平家の動きを捉える。

範頼が西へと向かったのと同じ日、搦手大将軍源義経と安田義定は都の丹波口にあった。
その率いる兵はさほど多くはない。
数日間彼等は都に程近い大江山に滞在した。
この滞在を都の人々は不審に思った。
だが、この大江山にいる間に搦手軍は大いなる変貌を遂げる。
いつの間にか軍勢が増えていたのである。
彼等には新たなる味方がついた。
摂津国住人多田行綱が召集した摂津国の武士たち、そしてその他畿内の武士たちである。
その摂津国住人たちに先導されて義経ら搦手軍は丹波国へと向かう。

一方都では未だに和平派が戦闘回避に向けての動きを止めない。
和平の使いを出す出さないで公卿たちが未だに揉めている。
この都の動きが福原にも伝わり、和平か戦闘かの平家の判断を鈍らせている。

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