時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百三十八)

2009-12-13 07:10:15 | 蒲殿春秋
軍議が終わると出兵に向けての動きが始まる。
義経らは都に戻った。大手軍は先発隊が西へと移動する。
多田行綱は摂津国の武士たちの動員を呼びかけるべく摂津国へと戻る。
その他畿内の武士たちもそれぞれに大手軍搦手軍に従軍の意を伝えるものも現れた。

そのよう折、在京中の源義経が都に派遣されたある平家の使者を捕えた。
都の貴族の中には平家と連絡をとっているものもある。

その使者を尋問する義経。
するとその言葉の端からある事を知った。

福原にいる平家の軍勢に変化があるというのである。

念の為義経は西国から都に上る人々を何人か呼び寄せ福原の様子を尋ねた。
彼等の話によると確かに福原から兵の数や舟の数が減っているようなのである。
福原から西へと去っていくものが後を絶たないらしい。

さらに福原より西から来たものも集めた。
すると淡路、伯〇(〇=老の下に日ほうき)、讃岐、伊予などの西国で兵を起したものがあるという。
近く福原から兵がやってきて戦乱になるだろうとの噂もある、と。

義経は考えた。
在地豪族間で紛争のない場所などない。東国もそれは激しかったが西国も同様であろう。
西国の豪族で平家に従って福原にいるものたちは平家の帰京の際に功績を立てて
平家の後ろ盾を得て在地における力を拡大しようと図ったのだろう。
だが、平家は福原に留まって中々都に入らない。
福原滞在が長引いただけ本領を離れて平家に従軍する期間が長引く。

その隙に平家に従軍した者たちと敵対する勢力が蜂起したのであろう。
さらに、義仲を破った鎌倉勢の存在が蜂起したものたちを後押ししたのであろう。
その蜂起はそれを鎮圧する為に平家に従軍したものたちを国に戻らざると得ない状態へと追い込んだのだろう。

義経は鎌倉から付き従ってきた中原親能に何事かを告げた。
親能は頼朝に仕える文官であると同時に都の公家中納言源雅頼の家人でもある。よって親能には都に知り人が多い。
その親能の人脈を使った。
数刻後都から幾人かの人々が西を目指して走り去っていった。

やがて義経の都の宿所に兄範頼が現れた。
その二人の元に勅使が現れる。

その勅使を迎え入れた範頼と義経の元に「宣旨」が下された。
「応に散位源朝臣頼朝をして前内大臣平朝臣以下党類を追討せしむべき事。

右左中弁藤原朝臣光雅を伝へ、左大臣が宣する。勅を奉る。
前内大臣(平宗盛)以下党類、近年以降専ら邦国の政を乱る。
皆これ氏族のためなり。遂に王城を出て、早く西海へ赴く。
なかんずく山陰山陽南海西海道の諸国を略し、偏に乃貢を奪取す。
これが政途を論ずるに、事常に絶えたり。よろしくかの頼朝をして件の輩を追討せしむべしといへり。」

それから土肥実平、梶原景時、安田義定らも義経の宿所に集まり福原の平家の矢合わせ(戦闘開始)は二月七日と定められた。

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