時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

志田義広蜂起(野木宮合戦)の年月日

2008-09-20 05:16:04 | 蒲殿春秋解説
小説もどきの中で志田義広蜂起(野木宮合戦)を寿永二年(1183年)二月の出来事として書かせていただきました。

志田義広蜂起は実際にあった合戦のようです。

「吾妻鏡」においてはこの蜂起は養和元年(1181年)閏二月二十日発生に事件として記されています。
しかし、石井進氏が「志太義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」(『中世の窓』1162年11月所収)
という論文を発表して以降、この事件は実際には寿永二年(1183年)二月に起こった合戦であるというのが、有力な説として定着しているようです。
(治承五年閏二月は「吾妻鏡」編纂時の誤謬とみなされているようです)

石井氏の説によると
・「吾妻鏡」建久三年九月十二日条の載せられている小山朝政に対する政所下文に
「去寿永二年、三郎先生義広発謀反(以下略)」とある。
この文書は他の現存する政所下文と比較しても形式上ただしく
吾妻鏡が取り入れた「地の文」として正しいものと思われる。
志田義広の蜂起はその地の文の記載の通り「寿永二年」の事件とするべきである。

・「吾妻鏡」元久二年八月七日条にも
寿永二年に志田義広が起きた事件との記載がありそれも「地の文」である。

・寿永元年の頼朝と義仲の対立の要因の一つとして理屈が通りやすい。
志田義広が義仲のもとに逃亡したということがあれば
寿永二年二月に挙兵敗北、義仲の元へ逃亡、それが頼朝との対立の一つの要因となったと見るのが自然である。

以上のような石井説は現在かなり支持されているようです。

このようなことから今回の小説もどきでも
寿永二年説 を使用させていただくことといたしました。

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