時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百二十五)

2007-03-21 14:56:00 | 蒲殿春秋
夜が明けて富士川東岸に到着した甲斐源氏本軍はもぬけの殻になった対岸を目にすることになる。
一戦を交えることも無く、追討軍の一方的な撤退という事実のみで
後に言う「富士川の合戦」は終了した。

富士川まで行軍すると一日以上かかる場所にある黄瀬川宿に陣を張る
源頼朝は十九日朝の時点でまだこの事実を知らない。
十九日昼過ぎに甲斐源氏本軍に到着した使者は「二十四日に矢あわせ」をという頼朝軍の
伝言を伝える必要もなくなってしまった。
甲斐源氏も敵が消失したという目の前の事実を未だに受けて入れていない。
使者は追討軍撤退の報を頼朝に伝えることになった。

使者が持ち帰った報告を聞いた頼朝は翌二十日確認に配下の者を西に向かわせた。
その確認の結果追討軍の撤退が事実であることが判明した。
夜になり視察の者の報告を聞き、追討使の撤退を確認した頼朝は即座に軍勢を東に戻した。

追討使撤退の報はその日のうちに、甲斐にも届けられた。
その報を耳にした甲斐源氏に仕える文士大中臣秋家は急いで荷をまとめて駿河へと向かった。
今回の論功交渉の手続きはかなり広範囲で煩雑になると思われる。
あのいつも忙しい男は、駿河でもっと忙しい思いをすることになるのであろう。

秋家が出立したのを見送った範頼は、自らも暇乞いをして
鎌倉に向かう兄頼朝の元に行きたいと
甲斐の留守を預かっている加賀美遠光に告げた。

だが、遠光の答えは「否」だった。
「まだしばらく蒲殿には我等と共にいていただきたい」
と言われた。

追討使が去り駿河目代を殺害し、駿河をほぼ手中に収めた甲斐源氏の次なる目標は
遠江を手に入れることである。
遠江を攻略するためには遠江に縁の深い範頼が甲斐源氏
とりわけ遠江を欲している安田義定にとっては必要な存在となっていた。

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蒲殿春秋(百二十四)

2007-03-20 17:42:22 | 蒲殿春秋
十月十八日夜、源頼朝は駿河国黄瀬川の宿に到着した。
自陣に加わった諸将と軍議を図った結果、
黄瀬川の宿から追討使が陣を張る富士川辺までの距離と行軍の状態を考え
十月二十四日に追討使と矢合せ(戦闘開始)をするように甲斐源氏に提案することにし
その旨を伝える使者を発した。

その頃甲斐源氏は先に富士川辺に向かって全軍猛進撃している。

一方富士川西岸の追討使の陣では総大将平維盛と侍大将上総介忠清が大激論していた。
敵の兵力が予想以上に膨らんでいること、
自軍の兵の脱走が相次ぐこと
これ以上の追討使への徴兵はほぼ不可能であること
そして、甲斐源氏の背後から頼朝が押し出してきていること
このようなことを考えると
一旦撤退して体制を整えてから再度出撃すべきだと
忠清は主張した。

だが、総大将維盛は撤退には不同意だった。

議論は数刻にも及んだ。
忠清は理をもって撤退する必要性を切々と維盛に説いた。
主たる諸将も徐々に忠清に同意の色を見せる。

そこまできて維盛はようやく撤退を決断した。

維盛が全軍退却の下知をした頃には、もう夜明けが近づいていた。
敵の追撃を避けるためには夜が明ける前に富士川から撤退しなければならなかった。
すぐに夜明けはやってくる。
限られた時間の中で、大勢の人数が撤退しなければならない。
追討使の軍の中では混乱を極めた。

何とか撤退を開始したその時
おびただしい軍兵が近づくような音が富士川の向こうから聞こえてきた。
「敵襲だ!」
と誰かが叫ぶ。
その声が混乱に拍車をかけた。

撤退はもはや整然と行なうことは不可能となっていた。
混乱しながらも追討使一行は夜が明ける前に富士川沿の陣を引き払った。

陣を張っていたものが去り無人となった仮屋の上空を
撤退した追討軍に敵襲と勘違いさせた多くの水鳥が羽ばたいていた。

実は追討軍が撤退を始めたその時には甲斐源氏の先陣が富士川沿いに到着していた。
そして、その軍兵の足音が水鳥を刺激した。
驚いた多数の水鳥は一斉の羽ばたいた。
その羽ばたいた音を追討軍の一部が敵襲と勘違いしたのであった。

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蒲殿春秋(百二十三)

2007-03-19 13:58:57 | 蒲殿春秋
十月十六日夜に相模国府に入った源頼朝は
翌朝軍兵の一部を波多野に派遣し、自身はさらに西へと進んだ。
頼朝に味方するかどうか未だ旗幟を鮮明にしない波多野氏。
しかも、大庭の残党が波多野一族の河村氏の所領に逃げ込んだとの報を受けた以上頼朝は波多野一族を放置できなかった。
頼朝の軍勢に攻め立てられ波多野一族は降伏。
当主波多野義常は自害した。
十月十七日には頼朝はほぼ相模を手中におさめた。

一方十月十六日夜、平維盛率いる追討軍は駿河国高橋宿(現在の静岡市清水区)に到着した。
すでに東駿河は甲斐源氏に占拠されている。
もう敵は目の前にある。

翌十月十七日朝、平維盛につけられた侍大将上総介忠清の元に甲斐源氏から使者が到着した。
その使者は文を携えていた。文の記されている内容は次のようなものであった。
「長年、お目にかかりたいと思っておりましたが、その機会がなかなかありませんでした。
幸い、宣旨のお使いとしてこちらの方にいらしたようですので、
こちらから出向こうかとも思いましたが、我々はそこからは一日以上かかる場所におりますので伺うことができません。
かといって、そちらからお越しになるのも面倒でしょうから
お互いに少し進んで会いましょう。
幸い浮島ケ原という場所がありますのでお互いにそこでお互いに対面しましょう。」
この文を読んだ上総介忠清は激怒し、使者二人の首を即刻刎ねた。

追討軍は十月十八日富士川沿いに進出し河の西側に仮屋を設営した。
一方甲斐源氏は全軍揃えて平家の待つ富士川の対岸へと向かった。
使者を切り捨てるという戦の作法を無視した追討軍に対し、
その非礼に対する報復に燃え、怒りをたぎらせながら甲斐源氏の軍勢は
恐るべき迫力で進軍している。
その甲斐源氏の軍には甲斐から引き連れた勢の他、
駿河で味方になったものも加わりかなりの数に膨れ上がっている。

一方、追討軍は駿河に入ってから兵の脱走が相次ぎ
その兵数は極端に減少してる。

そして、甲斐源氏の後方から源頼朝が甲斐源氏以上の莫大な兵を率き連れて
駿河国に入ってくる。

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蒲殿春秋(百二十二)

2007-03-17 22:36:54 | 蒲殿春秋
勢いに乗った甲斐源氏は東駿河を一気に占領した。
甲斐源氏の勝利はその後の東国全体の戦局を大きく変えることとなった。

まず、東へ下ってきた追討使の徴兵に異変が生じた。
それまでも予想したほどには兵は集まらなかった。
特に遠江においてそれは顕著であった。
遠江の兵の多くは甲斐を警戒する駿河の援軍に向かっていたからでもあったが。

駿河に入ると全く徴兵ができなくなった。それどころか駿河の状況は予想以上に深刻であった。
追討使が駿河の国境に入った頃、駿河国衙は多くの兵を引き連れて甲斐との国境でにらみ合いを続けていた。
国衙軍に加わっていないものは理由をつけて追討使への参軍を拒んでいる。
だが、追討使は状況を楽観していた。
自分たちが国衙軍に合流すればすぐに甲斐源氏などの反平家軍を撃退できると。

だが、駿河に入った追討使が国衙軍に合流するより前に
十月十四日に駿河国衙軍は単独で甲斐源氏と戦って破れ壊滅してしまった。
駿河国衙軍を指揮していた長田入道らの首が東海道の目抜き通りにさらされ
その敗北は瞬く間に各地に知れ渡った。
追討使は合流するはずの駿河の勢力を失ってしまった。
それどころか東駿河は早々に甲斐源氏に占拠されてしまった。

さらに、東相模以東にて頼朝の勢力が日々増大しているとの噂が追討軍に従う者の戦意をさらに喪失させた。
夜になる追討軍から密かに離脱するもが相次いだ。
その脱走の数は日を追うごとに増えていき、軍勢の人数は瞬く間に減少した。

一方この甲斐源氏の勝利は頼朝の西方進出をも可能にした。
そのころも未だに相模中央部に勢力を張っていた大庭一族。
彼らも追討軍の来着を信じ、それに合流すべく準備をしていた。
しかし、駿河西部に在る追討軍と相模中央部に位置する大庭の軍勢の間に
駿河東部を占拠する甲斐源氏が割って入る形になった。
そして、東からは巨大な勢力に成長した頼朝がいる。
頼朝は日に日に大庭への圧力を強めている。
東に頼朝、西に甲斐源氏の反平家同盟にはさまれて大庭は孤立した。

大庭景親は兵をまとめて追討使に合流すべく西へ向かった。
だが、東駿河を占拠している甲斐源氏の意気は盛んである。
そこを越えて追討使のいる西駿河に景親らが進軍することは難しい状況となってしまった。
西へ進めないからといって来た道を引き返そうにも、東には頼朝それに長年敵対している三浦一族がおりそちらにも戻れない。

進退窮まった大庭景親は軍を解散し自らは相模北西部の河村郷へ逃げ込んだ。

十月十六日、相模における眼前の最大の敵大庭氏の勢力が消失したのを確認した
頼朝は鎌倉を出立し、大軍を率いて駿河を目指した。

こちらの地図をご参照ください

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蒲殿春秋(百二十一)

2007-03-17 09:48:20 | 蒲殿春秋
「つまり今は佐殿は鎌倉より先へは兵を進めがたい状況にあるということじゃ。
わしらは、佐殿に駿河まで兵を進めて欲しいと使者に言葉を託したのじゃが、
佐殿は今足柄へ兵を進めるのでさえも難しい。」
加賀美遠光は言葉をつづける。
「此度のわれらの駿河攻め、この一戦に勝てば佐殿にとっても状況が変わるやもしれぬがな・・・」

━━兄上
範頼はここにいて何もできない自分の無力さに情けない思いがした。

甲斐源氏が出立していったその夜は静かに更けていった。
残された人々は落ち着かなぬ日中を過ごし、やがて夜を迎えた。
そこへ甲斐の留守を守る加賀美遠光の元へ甲斐源氏大勝の知らせがもたらされ
遠光が滞在する石和館はどっと沸いた。

その戦勝の知らせは次の通りである。
十月十三日夜、北条時政、江間四郎義時父子は甲斐源氏の郎党と共に駿河国大石宿へ兵を進めた。
「甲斐源氏来る」の報を受けた駿河目代橘遠茂、長田入道は大石宿に滞在する彼らを急襲しようと
兵を進めた。
だが実はこれは甲斐源氏の策略であった。
長田入道ら率いる駿河国衙軍は富士野を回って大石宿を目指した。
その動きを国衙軍に紛れ込んだ甲斐源氏の間者が富士山の北山麓を通って兵を進めている
武田信義に通報する。

翌日正午、鉢田に兵を進めていた駿河国衙軍は予想もしなかったこの場所で甲斐源氏の大軍に遭遇する。
北条父子は駿河の国衙軍をここにおびき寄せるためのおとりであった。
険しい山道、少しでも道を踏み外すと底すら見えぬ谷が待ち構えているこの難所で駿河国衙軍は前にも後ろにも進むことができない。
そうしている間に甲斐源氏の兵は次から次へと現れる。
それでも駿河国衙軍の長田入道らは、甲斐源氏に戦いを挑む。

だか、戦闘を始める以前から国衙軍の中にあっても甲斐源氏に誼を通じていたものは次々と投降していった。
そして味方であったはずの国衙軍へ弓を向ける。
国衙軍に残ったものは、甲斐源氏そして寝返ったものに対して死闘を繰り広げたがそれも一刻も持たなかった。
長田入道父子は討ち取られ、橘遠茂は加藤次景廉に捕らえられ、
残りの者もことごとく討ち取られてしまった。
投降したものの多くは甲斐源氏への忠誠を誓った。
富士の裾野で繰り広げられたこの戦いで甲斐源氏の一党は駿河国衙軍を壊滅させた。

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蒲殿春秋(百二十)

2007-03-13 22:59:00 | 蒲殿春秋
加賀美遠光の現在の妻は頼朝を支える三浦一族の一人和田義盛の妹である。
その関係で遠光は和田義盛とは親しい。
鎌倉の動向は義盛から順次知らせが届く。

頼朝は当初足柄山で平家を迎え撃つことを考えていた。
そのため伊豆と相模の国境付近の秋戸に妻政子らが避難していることを知ると
彼女らの安全を守るため政子と娘大姫そして政子の妹達を早急に鎌倉へ呼び寄せた。
足柄山は天然の要害、そこを地の利のある自分たちが固めれば
追討使を追い返すことができると考えていた。

頼朝の武蔵相模の基盤は脆い。
葛西、足立、秩父一族などがとりあえずは味方についている。
とはいえ長いこと平家の知行国であった武蔵の豪族らは何かのきっかけで
いつ平家方に戻るかわからない。
その他の武蔵の豪族の中には趨勢を明らかにしていない者も多い。
相模では大庭一族がなんとかその地に追討使を迎え入れようと画策している。
石橋山で敵対した相模の豪族も未だ健在である。

完全に平家勢力を駆逐した房総とは違い武蔵、相模の状況は頼朝にとっては決して安定したものではない。
また、頼朝傘下の全軍を率いて西方へ遠征した場合、武蔵下総に程近い常陸の佐竹が背後から襲い掛かってくる危険性もある。上野の藤姓足利氏や新田氏の存在も不気味である。
つまり、現在の頼朝にとって鎌倉から先に進軍することは多くの危険を伴う状態なのである。

頼朝は鎌倉に入った後もその基盤固めに余念が無く
現在は石橋山で敵対した相模の諸豪族の切り崩しや武蔵の豪族の抱え込みを行なっている。

だが、追討軍はその兵力を膨らませながら確実に東に向かっている。
その追討軍はなんとしても撃退しなければならない。
足柄山に進出するとしても鎌倉より西に進出せねばならず、
そのためには再度の大庭との対決はさけられない。
だが、未だに相模における大庭の力は侮れない。
大庭と戦っている最中に追討軍がくれば大庭を勢いづかせ
さらには自軍から離反者が出てくるかもしれない。
追討軍が足柄山に来る前に相模はなんとしても平定しておかねばならない。

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蒲殿春秋(百十九)

2007-03-13 00:49:28 | 蒲殿春秋
「明日出陣する」と安田義定は言った。
「蒲殿には戦が落ち着くまで甲斐でお待ちいただきたい」とも言った。
それだけ言うと義定はそそくさと範頼の前から去っていった。

自分は甲斐源氏の戦には加わらない。
それはそうだろう。自分と当麻太郎の他に手勢はいない。
当麻太郎はとにかく自分は武勇の誉れが高いわけではない。
また、着の身着のままで遠江を追い出され、武具は何一つ持っていない。
甲斐源氏の軍に加わっても足手まといになるだけである。

━━ 自分は何のためにここにいるのだろう。

ふと、そのような想いが沸き上がってくる。

翌朝、甲斐源氏の一団は出陣の儀式を盛大に済ませ駿河に向かって進発した。
武田信義、その子一条次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、石和五郎信光
信義の兄弟の安田三郎義定、逸見冠者光長、河内五郎義長らの甲斐源氏の一団に
伊豆からやってきた加藤太光員と加藤次景廉の兄弟も加わっている。
一方、時を置いて北条時政とその子江間四郎義時も甲斐源氏の郎党を従え
信義らとは別の方角に向かって進軍していった。

範頼は甲斐の留守を守る加賀美遠光と共に彼らを見送った。
大勢の兵が旅立った後は、館の中は静謐が訪れる。
出陣前の異様な熱気の後だけに、その静謐が恐ろしくさえなってくる。

その静謐の中一人だけ立ち止まることなく動き回っている男がいる。
彼は、武田信義に仕える文士大中臣秋家という。
戦の後に待ち受ける論功行賞の手続きで忙しくなるであろうこの男は
今からなにをそんなに慌しく動き回っているのだろうか・・・

出陣の後の異様な空気が過ぎ去った後範頼は加賀美遠光の元を訪れた。
「よく、来てくださいましたな」
と加賀美遠光は範頼を快く受け入れた。
「しばらくはゆるりと過ごしましょうぞ、この甲斐は兄者達が此度の戦で敗れぬ限りは安泰じゃからのう」
武蔵の秩父一族の頼朝軍への参向によって武蔵からの脅威は薄れ
また、上野の豪族の多くが木曽義仲の呼びかけに応える動きを見せている。
この状況の続く限り大軍を南に向かわせても甲斐は安泰である。

「次の懸念は佐殿がどこまで我等に手を差し伸べてくださるかじゃ」
「?」
「佐殿は確かに我々甲斐源氏と同盟を結んで下さった。
じゃが、どのように動くか、わしらに援軍を送ることができるかどうか
今の時点では、はっきりとはわからぬのじゃ」

甲斐源氏の系図はこちら

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蒲殿春秋(百十八)

2007-03-11 00:28:38 | 蒲殿春秋
源頼朝の急速な勢力拡大は甲斐源氏の駿河攻略を実現可能なものにした。

平維盛を総大将とする平家の追討軍は兵を徴収しながら確実に東海道を東に向かっている。
国境付近で未だににらみ合いを続けている駿河目代の橘遠茂、長田入道は
追討軍来るの報に意気が上がっているものの
一方で駿河に程近い坂東で急速に勢力を拡大させてきた頼朝には脅威を感じている。
膠着状態のつづく日々。自分たちの預かり知らぬ所で変化を続ける東国の情勢。
そのような状況下駿河軍の中にあせりの色が見え隠れしてくる。
その危うい状況を陣中から密かに甲斐源氏知らせ、敵陣に接触を図っている駿河の者もいる。

一連の状況を見据えて武田信義は頼朝と連絡を取る必要性を感じていた。
平家の大軍を迎え撃つのには味方の勢力は大きければ大きいほど良い。
頼朝と同盟を結びその勢力を背景にすれば追討軍に対しても
駿河の諸豪族に対しても無言の圧力がかかるであろう。
信義は北条時政に同盟を結ぶため頼朝と連絡を取るように依頼した。
時政はすぐに書状をしたためた。

程なく頼朝は武田信義の書状を受け取った。
頼朝は相模国鎌倉にいる。
鎌倉は頼朝にとって祖先源頼義以来の縁の地でもあり
父義朝がかつて居住していたところでもある。

頼朝も追討軍を追い返すためには甲斐源氏と同盟を結ぶ必要があると思っていた。
彼は使者に同盟に応ずると返答した。

頼朝の同盟が成立した甲斐ではあわただしく駿河に向けての出兵の準備が進められた。
その中において範頼は相変わらず蚊帳の外に置かれている。
出兵には加わるようにとは誰も言ってこない。
さりとて、出陣前の異様な熱気の中で手持ちぶたさで待たされるのも落ち着かない。

熱気が最高潮に盛り上がった頃範頼の元に安田義定が現れた。

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蒲殿春秋(百十七)

2007-03-04 09:10:26 | 蒲殿春秋
安田義定の話は結局、駿河に進出はしたいのだが、現時点では甲斐から出るのが不可能という現況の知らせだった。
甲斐源氏のこのような身動きのとれない時期は数日続いた。
さらに、追い討ちをかけるかのように
九月二十一日に追討使が福原の都を進発したとの知らせが入ってきた。
それに呼応するかのように駿河目代は甲斐に攻めを画策しているという。

ただし、全く希望が無いわけではない。
上野に関しては、新田義重に対しては彼と日頃から親交のある甲斐源氏の一族加賀美遠光、
信濃源氏の平賀義信が甲斐信濃に手を出さなように説得している。
また、先に信濃国市原で見事な勝利を収めた木曽義仲は
その父義賢がかつて上野国多胡郡に本拠を置いていたよしみで
上野の諸豪族に自分に与同するよう働きかけているようである。
上野の国府の近くには、反平家の動きも出てきている。

甲斐信濃の国境各地で不気味なにらみ合いが続いている中
甲斐源氏のあずかり知らぬところで彼らにとっての幸運が
湧き上がり始めた。
まず、追討使が福原を進発したものの旧都である京に数日留まって動かなかったことが一つ目の幸運であった。
追討使進発の遅れは海道諸国に動揺を与える。
甲斐のすぐ南に境を接している遠江、駿河においてもそれは顕著であった。
結果駿河目代の自国内における甲斐攻めの徴兵が徐々に困難となってくる。
東駿河の豪族は目代の召集にほとんど応じない。ここにきて北条時政らの事前の工作が活きてきた。
兵を増やすため駿河目代は遠江国衙にも援軍を要請することになる。

上野においても動揺が走った。
趨勢を明らかにしていなかった国衙近辺の豪族があからさまに反平家の態度を見せ始めた。
その動きを警戒した藤姓足利氏の俊綱は国衙近辺の焼き払った。
一方新田義重は何故か自領の中の寺尾に立てこもった。

そして、甲斐源氏にとっての最大の幸運が沸き起こった。
石橋山の合戦で破れて安房に逃れていた源頼朝。
頼朝は八月末に安房に上陸して以来一月ほど安房、上総、下総とゆっくりと北上していた。
頼朝に与同していた上総介広常や千葉常胤らが房総の平家方勢力を掃討するのに
一月程要したからである。
その一月が終わると頼朝は武蔵に入る。
それからが早かった。
十月に入ると武蔵の諸豪族ならぴに下野の小山氏らが瞬く間に頼朝の軍門に加わったのである。
頼朝が武蔵国に入ったのが十月二日。
それから、武蔵の豪族を続々と味方に加えて大軍に膨れ上がった源頼朝軍は
十月六日には相模国に入った。
戦に破れわずか数人で安房に落ち延びた源頼朝。その勢力は一月の間に数万という大軍に膨れ上がった。
この源頼朝の勢力増大が甲斐近辺の勢力地図を一変させた。
まず、武蔵の脅威は完全に消え去った。
また、追討使下向の話を聞き動揺していた駿河の諸豪族は頼朝の勢力増大を知り
一気に反平家に傾いた。

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