星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

知り合ったときには・・・(10)

2006-10-08 23:50:56 | 知り合ったときには・・・
(10)

 彼の単身赴任を伴う異動内示は、それを知った時の私には無慈悲な宣告のように聞こえたが、その後の展開を思えば、それは私に降りかかった幸運だったのだと思う。コーヒー店のあと、私は彼を自分のアパートへ誘った。普段あまり積極的な行動をするほうではないのに、あの時なぜあれ程大胆な行動に出られたのか、自分でも分からない。切羽詰った状況に置かれると、こんな私でもあれほどの行動ができるのだと思った。私は彼の転勤の話を聞いて、永久に彼に会えないような錯覚に陥っていた。同じ職場にいて毎日のように顔を合わせ、喋り、仕事という同じ目標を共有していた上司や同僚が、職場が変わると、ただの、過去に同じ部署で一緒に仕事をしたことのある人、になってしまうように、私が彼にとって、かつて一緒に仕事をしたことがある、大勢の女子社員の中のひとり、になってしまうことに、耐えられないと思った。
 
 このまま彼と、行き着くところまで行ってもいい、そんな考えが急速に浮上し頭の中を占領した。私は、たとえそれが一回きりのことになっても、絶対に後悔しないという自信があった。そうなったことを悔やむなら、勇気を持って行動にでなかったことのほうを悔やむだろう、そう思った。以前付き合っていた彼と別れてからは、私には何も遠慮する人はいなかった。私はひとりで、そして自由だった。彼が既婚者であるということが、それまでの積もった感情を破裂させないための、ブレーキのようなものとなっていたが、その時はそんなこと、どうでもいいと思った。彼が既婚者かそうでないかは、私の思いには関係ない、そう思った。その時の私は、初めて誰かを欲するというのは、こういうことなんだと知った。今目の前にいる彼の、頬に触れたいと思った。それから唇に触れたいと思った。それからのことはあまり考えていなかった。ただ、今、この手で触れることが出来たら、そう思った。

「ずっとその目に追いかけられていたな。」「お前のその目に。」
私は、顔の他の部分よりも、目に自信があった。決してぱっちりとした愛くるしい目とは言えないし、整った美しい瞳ではないと充分分かっているのだが、私の目は鋭くて、力があるとよく人に言われた。それは単に、目が悪いせいでじっと見つめてしまうからなのかもしれない。私は言われながらも、彼の目から視線を逸らさなかった。
「分かっていたのですか?」
彼が瞬きをした。ゆっくりしたので、それはスローでカメラのシャッターを切ったかのように、私には感じられた。
「あんな風に見つめられて、気がつかない訳ないだろう。」
「すみません。」
なぜ謝るのだと、自分で思いながらも、少しだけ恥ずかしくなった。
「俺を好きになっても、どうしようもないじゃないか。それにお前には付き合っている奴がいるだろう。」
「いないです。」「とっくに別れました。」
 彼は困ったような顔をした。その表情を見ていると、私は自分が、随分と子供のように扱われているのではと思った。
「いつもいつも、私の頭の中を占領している、そんな人がいるのです。別れた彼に対しては、その人に対して持っているほどの、思いを持つことができなかったのです。それで・・・。それでその人とはお別れしました。」
「そんな人っていうのが、俺なのか。」
「はい。」
「もっと若い奴がたくさんいるだろう。それに、よりによって女房にガキまでいる男相手にしなくても。」
私は視線を少しずらして、彼の空になったグラスの水滴と、中で重なって入っている氷とを見つめた。それから、そのグラスを持つ彼の手を眺めた。その手を数秒か数十秒見つめていると、結婚指輪がないことに気付いた。そしてそんなことに、私は勇気付けられたような気がした。
「私が主任さんを好きになったとき、奥様やお子様がいるのを、知らなかったのです。そしてそのことを知った後も、奥様がいるとかお子様がいるということで、気持を止めることができなかったのです。」
素直に思ってることが、すらすらと口から出てしまった。言いながら、私は今から、何を期待しているんだろうと、自分で自分を信用できない気分だった。ここまで気持を話してしまったからには、もう成り行きにまかせるしかない、そう思った。

にほんブログ村 小説ブログへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする