(9)
地下鉄を一駅分だけ乗り、ターミナルの駅で降りた。地下の連絡通路は、溢れるように人でごった返していた。主任の彼の後を、はぐれないように歩く。人の波に流されるように、前に進んだ。通路を抜け外に出ると、表の通りからひとつ路地に入り、古い感じのビルの階段を上った。目立たないコーヒー店があった。
彼の後に続いて店に入る。店内は程よく照明が落ちていて、落ち着いた雰囲気だった。ジャズが小さな音量で流れ、一人でいる客か二人でいる客がほとんどのようだった。大きな声で話すものもいない、静かな店内だった。ウェイターがくると、彼はアイスコーヒーを、私はカフェオレを注文した。
コーヒーでも飲もうか、と自分から誘っておきながら、彼はコーヒーを飲みながら煙草をくゆらせて、ほとんど自分から喋らなかった。彼と私の間に、ジャズが静かに流れた。音楽のせいかこの店内の雰囲気のせいか、私はこの沈黙に、それほど焦ることはなかった。それどころか沈黙にまかせて、目の前の彼をたまに伺いながら、思う存分自分の考えに浸っていた。窓際に座った私たちは、ほとんど人も通らない路地の様子を、焦点の合わない目でぼんやりと眺めていた。彼は何を考えているのだろうかと思った。今までは、こうして、たまにランチに行ったりお茶に行ったりして二人になることはできたけれども、もうそんな機会はないのだと、実感はまったくないが、頭がそう納得しようとしていた。
「転勤されたら、もうお会いすることもないんですね。」
いくらなんでも、何か話さなくてはと、こんな言葉が口をついた。彼は窓に向かっていた目をこちらに向け、「そんなことないだろう。」とひとこと言った。
「同じ会社にいるのだから、またいつかどこかで会うこともあるだろうよ。」
私は、いつもならすぐに逸らしてしまう視線を、このときはじっと見た。もうこのお顔も、見れなくなってしまうと思った。毎日会社の事務所で、彼の行動のすべてを見ていた私は、今目の前にいる彼が、たとえ目の前からいなくなっったとしても、どんな姿をも思い出すことができると思った。遠くから見た背格好や頭の形や顔の輪郭、コーヒーカップを持つごつごつした手や時計をしたがっしりした腕、まつげの長さやほくろの位置、そして大きくて意外に愛くるしい眼鏡の奥の瞳まで、外から見えるほとんどを記憶をしていた。けれども、中身は、何も分からずじまいだと思った。彼がどんなこと考えているか、それから彼のもっと細かい体の部分は、想像するしかなかった。
「そうですか。」「でも、もう、同じ部署になることは、多分ないですよね。」
まだ目はそのままだった。あまり視線を合わせて話をしない彼も、まだこちらを見ていた。仕事中の近寄りがたい目でもなく、あの何とも言えない細い目でもなく、何か私に言いたいことがあるかのような、少し真面目な表情だった。その目を見ていると、私は自分の想像が、自分勝手に自分のいいように進んで行くのを、止めることができなかった。彼と私は、数秒か数十秒、無言で見詰め合っていた。私はこのとき、一気に心臓がぎゅっとなるのを感じた。息をするのが苦しく感じられた。そして、彼に対して初めて、理性でなく、本能的な体の欲求が湧いてくるのを感じた。今目の前にいる彼に、触れたいと思った。
「わたし、」
勝手に口が喋りだした。そして止められなかった。
「私、ずっとずっと見ていました。主任さんから、どうしても目を離すことができなくて、ずっと見ていました。」
彼は何も言わず、私のほうを向いてそのまま私を眺めていた。
「一緒にお仕事ができて、本当に良かったと思います。色々なことを近くで勉強させていただいた気がします。気が利かないのであまりお役に立てなかったかもしれませんが。」
私は無意識に、発言にブレーキをかけ、軌道修正をしていた。言ってから、ずっと見ていたのは好きだからでなく、仕事振りを見習うためだとも、取ってもらえるだろうと思った。
「見ていたのか。」
彼が少し笑った。私の発言をどう取られたのか分からないが、彼は余裕だった。リラックスしていた。笑ってそのすぐ後、あの柔らかい、細い目になって、こちらを見ていた。もしかしたら彼は私が事務所でずっと見つめていたことを、分かっていたのかもしれない、と咄嗟に思った。そう思うと、一気に恥ずかしさが全面に押し出され、私は顔が火照ってくるのを感じた。
「中村は、俺のことが好きなのか?」
私は体が硬直して、動かなくなった気がした。あまりに突然な彼の発言に、動揺してどこに視線をぶつけていいのか、分からなくなった。それでそのまま、彼の顔を凝視していた。こんな単刀直入な質問は、想定外だった。不意を突かれた、と思った。そして次に、からかっているだけかもしれない、とも思った。彼は穏やかに笑っていた。私はアイスクリームを食べたあの日のことを思い出した。この表情に、きっと私は取憑かれたのだ。
私は多分、切羽詰まっていたのだろう。もうこの機会を逃すと、永久に彼とは会えなくなるかもしれない、そういう心境に達していたのだろう。この世の果てまで行ってしまうわけではないのに、配置換えでまたいつか一緒に仕事ができる可能性も無きにしも非ずなのに、もう永遠に、二度と、彼とは会うことが出来なくなるのだと、そういう妄想に取り憑かれていたのだった。そしてこのとき瞬時に、私はこの人を今捕まえないと、永久に近寄ることは出来なくなってしまうと、そんな考えが脳裏をよぎった。
「初めてお会いしたときに、好きになってしまったんです。」
ストレートに、正直に言うしか、方法が見つからなかった。大人の駆け引きのような会話も、想いをこめつつ控えめに言う言い方も、そのときの私は持ち合わせていなかった。言いながら、自分が安っぽい芝居か何かの、セリフを言っているような気分になった。私はそこら辺に転がっているような、いわゆる不倫をしたい訳ではないのだと自分に言い聞かせた。それなのに、こんなことを言ってしまっている自分がいた。彼が既婚者で子供もいることは、十分分かりきっているのに、そのことが私の感情に常にブレーキをかけ、本人はもとより周囲に悟られてはならないという注意力へと繋がっていたはずなのに、このときは、そのタガが、何故だか一気に崩れてしまったのだった。
地下鉄を一駅分だけ乗り、ターミナルの駅で降りた。地下の連絡通路は、溢れるように人でごった返していた。主任の彼の後を、はぐれないように歩く。人の波に流されるように、前に進んだ。通路を抜け外に出ると、表の通りからひとつ路地に入り、古い感じのビルの階段を上った。目立たないコーヒー店があった。
彼の後に続いて店に入る。店内は程よく照明が落ちていて、落ち着いた雰囲気だった。ジャズが小さな音量で流れ、一人でいる客か二人でいる客がほとんどのようだった。大きな声で話すものもいない、静かな店内だった。ウェイターがくると、彼はアイスコーヒーを、私はカフェオレを注文した。
コーヒーでも飲もうか、と自分から誘っておきながら、彼はコーヒーを飲みながら煙草をくゆらせて、ほとんど自分から喋らなかった。彼と私の間に、ジャズが静かに流れた。音楽のせいかこの店内の雰囲気のせいか、私はこの沈黙に、それほど焦ることはなかった。それどころか沈黙にまかせて、目の前の彼をたまに伺いながら、思う存分自分の考えに浸っていた。窓際に座った私たちは、ほとんど人も通らない路地の様子を、焦点の合わない目でぼんやりと眺めていた。彼は何を考えているのだろうかと思った。今までは、こうして、たまにランチに行ったりお茶に行ったりして二人になることはできたけれども、もうそんな機会はないのだと、実感はまったくないが、頭がそう納得しようとしていた。
「転勤されたら、もうお会いすることもないんですね。」
いくらなんでも、何か話さなくてはと、こんな言葉が口をついた。彼は窓に向かっていた目をこちらに向け、「そんなことないだろう。」とひとこと言った。
「同じ会社にいるのだから、またいつかどこかで会うこともあるだろうよ。」
私は、いつもならすぐに逸らしてしまう視線を、このときはじっと見た。もうこのお顔も、見れなくなってしまうと思った。毎日会社の事務所で、彼の行動のすべてを見ていた私は、今目の前にいる彼が、たとえ目の前からいなくなっったとしても、どんな姿をも思い出すことができると思った。遠くから見た背格好や頭の形や顔の輪郭、コーヒーカップを持つごつごつした手や時計をしたがっしりした腕、まつげの長さやほくろの位置、そして大きくて意外に愛くるしい眼鏡の奥の瞳まで、外から見えるほとんどを記憶をしていた。けれども、中身は、何も分からずじまいだと思った。彼がどんなこと考えているか、それから彼のもっと細かい体の部分は、想像するしかなかった。
「そうですか。」「でも、もう、同じ部署になることは、多分ないですよね。」
まだ目はそのままだった。あまり視線を合わせて話をしない彼も、まだこちらを見ていた。仕事中の近寄りがたい目でもなく、あの何とも言えない細い目でもなく、何か私に言いたいことがあるかのような、少し真面目な表情だった。その目を見ていると、私は自分の想像が、自分勝手に自分のいいように進んで行くのを、止めることができなかった。彼と私は、数秒か数十秒、無言で見詰め合っていた。私はこのとき、一気に心臓がぎゅっとなるのを感じた。息をするのが苦しく感じられた。そして、彼に対して初めて、理性でなく、本能的な体の欲求が湧いてくるのを感じた。今目の前にいる彼に、触れたいと思った。
「わたし、」
勝手に口が喋りだした。そして止められなかった。
「私、ずっとずっと見ていました。主任さんから、どうしても目を離すことができなくて、ずっと見ていました。」
彼は何も言わず、私のほうを向いてそのまま私を眺めていた。
「一緒にお仕事ができて、本当に良かったと思います。色々なことを近くで勉強させていただいた気がします。気が利かないのであまりお役に立てなかったかもしれませんが。」
私は無意識に、発言にブレーキをかけ、軌道修正をしていた。言ってから、ずっと見ていたのは好きだからでなく、仕事振りを見習うためだとも、取ってもらえるだろうと思った。
「見ていたのか。」
彼が少し笑った。私の発言をどう取られたのか分からないが、彼は余裕だった。リラックスしていた。笑ってそのすぐ後、あの柔らかい、細い目になって、こちらを見ていた。もしかしたら彼は私が事務所でずっと見つめていたことを、分かっていたのかもしれない、と咄嗟に思った。そう思うと、一気に恥ずかしさが全面に押し出され、私は顔が火照ってくるのを感じた。
「中村は、俺のことが好きなのか?」
私は体が硬直して、動かなくなった気がした。あまりに突然な彼の発言に、動揺してどこに視線をぶつけていいのか、分からなくなった。それでそのまま、彼の顔を凝視していた。こんな単刀直入な質問は、想定外だった。不意を突かれた、と思った。そして次に、からかっているだけかもしれない、とも思った。彼は穏やかに笑っていた。私はアイスクリームを食べたあの日のことを思い出した。この表情に、きっと私は取憑かれたのだ。
私は多分、切羽詰まっていたのだろう。もうこの機会を逃すと、永久に彼とは会えなくなるかもしれない、そういう心境に達していたのだろう。この世の果てまで行ってしまうわけではないのに、配置換えでまたいつか一緒に仕事ができる可能性も無きにしも非ずなのに、もう永遠に、二度と、彼とは会うことが出来なくなるのだと、そういう妄想に取り憑かれていたのだった。そしてこのとき瞬時に、私はこの人を今捕まえないと、永久に近寄ることは出来なくなってしまうと、そんな考えが脳裏をよぎった。
「初めてお会いしたときに、好きになってしまったんです。」
ストレートに、正直に言うしか、方法が見つからなかった。大人の駆け引きのような会話も、想いをこめつつ控えめに言う言い方も、そのときの私は持ち合わせていなかった。言いながら、自分が安っぽい芝居か何かの、セリフを言っているような気分になった。私はそこら辺に転がっているような、いわゆる不倫をしたい訳ではないのだと自分に言い聞かせた。それなのに、こんなことを言ってしまっている自分がいた。彼が既婚者で子供もいることは、十分分かりきっているのに、そのことが私の感情に常にブレーキをかけ、本人はもとより周囲に悟られてはならないという注意力へと繋がっていたはずなのに、このときは、そのタガが、何故だか一気に崩れてしまったのだった。
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