ドアを開けると、雨が降っていた。
ドアを押さえながら、彼は何も言わなかった。ただ私が、ここから出て行くのを待っていた。私がここから出て行ったら、ドアを閉めなくてはいけない、それでただ、待っているだけだ。
外の空気は冷え切っていた。少し前に秋が、始まったばかりだというのに、まるで冬のような寒さだった。あまりの空気の冷たさに、まだ開いているドアの内側に、戻りたい衝動に駆られた。
「私にもう一度、チャンスはあるの?」
勇気を振り絞って、小声で聞いた。それを言うには自尊心とか、そんなものはないも一緒だった。私にあったのは、ただ、今日のことがなかったことだったらいい、それだけだった。
「ないな。」
少しの躊躇もせず、ひとこと彼はそう言った。そして私ではなく、私の後ろの、軒から落ちている雨の雫を眺めていた。私がここから出て行くことより、雨のゆくえが心配なような、そんな視線だった。
「さよなら。」
他に言うべきことばが見つからなかった。いつものように、またね、と言ってそしてキスして別れる、そんなことはもう、二度とできないのだ。
「大丈夫?」
それが心から出た言葉かどうか分からないけれど、彼はそう言った。恐らくそれは、ただ単に、今その言葉を言ったほうが、いいと思ったから言ったのだろう。私はちっとも、大丈夫じゃなかった。けれども大丈夫ではない原因は、この大丈夫と聞いている本人にあるのだから、大丈夫じゃないと答えることは、滑稽なことだと思った。そしてその言葉の響きが、今まで幾度となく言われた過去の、大丈夫、とまったく同じに聞こえたので、それで、もう、耐えられなくなってしまった。傘を広げた。後ろを向いたまま、じゃあ、と言って歩き出した。
後ろを振り返るのは止めようと思った。アパートが並ぶ狭い路地を、ひっそりと歩いた。何度ここに来ただろうか。この狭い路地を、何度こうして通っただろうか。休日の夕方は、いつもなら子供が自転車に乗ったり走ったりして遊んでいるのだが、雨の今日は、人っ子ひとりいなかった。涙で顔が濡れている私は、誰もいないことに安堵して、そして、差している傘のせいで顔を隠して歩けることに、ほっとした。
Tシャツにカーディガンを羽織った私は、両手で体を包むようにして、雨の中を歩いた。朝家を出るときは、こんなに空気は冷たくなかった。どうしてこんなに、急に寒くなったのだろう。
今何時なのかと思った。彼の口から、もう終わりにしようという発言があって、そして彼の胸の中で泣いていたのが、何十分のことだったのか何時間だったのか、よく分からなかった。別れ話を持ち出された男の、胸の中で泣くというのは、おかしいなことだったのかもしれない。プライドもなにもあったものではない。でも私達の中では、それが自然に行なわれた。それが彼の、優しさなのか冷たさなのかわからなかった。それでも私は、そうしたかった。突然の宣告で関係が終わってしまうなら、その泣いた数時間の猶予で心の整理が少しでもできるのなら、それでよかったのかもしれない。ともかく私は、今の今まで彼の胸の中で延々と泣いていたのだ。
あたりはまだそれほど暗くはなかったので、6時か7時くらいかと思われた。私は、今初めて時計を腕にしているのを思い出したかのように、時間を見た。6時過ぎだった。今日は彼と会ってくると言って家を出てきたのに、こんなに早く帰ったら、両親に何かあったと訝れるだろう。そう思うと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
街の中の、何もかもが目に入って、そして何もかもが目に入らない、そんな感じだった。視界としては目に入っているのに、それが何かを感知できないでいるのだった。何も感じなかった。ただ、最近の彼の行動と発言ばかりが、ビデオテープを巻き戻して再生しているみたいに、頭の中に思い出されるのだった。そして総合的に考えてみると、それはすべて今日のことの前兆だったのだと思った。
電話ボックスが目に入る。傘を閉じて、半分濡れた体を入れた。雨の音が、箱の上からぼたぼた落ちてくるのが響いた。先ほどより雨足がひどくなり、側面のガラスの上を、雨粒が当たって流れ落ちていく。しばらく呆然と雨を見ていた。ボックスの中は少しだけ暖かい気がした。外の世界から遮断された、シェルターにいるようだった。流れる雨で視界が悪いのか、涙のせいなのか、外の景色がかすんで良く見えなかった。
カードを入れる。動物病院で働いている友達に電話を掛ける。呼び出し音が続いた。20回くらいの呼び出し音で、さすがにいないのだと気がついた。祝日はお休みだと思ったけれど、彼と会っているのかもしれない。それから、会社員の友達に電話を掛ける。お母様が出た。出掛けて帰りが遅くなるということだった。遠距離恋愛をしている彼女は、帰りがいつも遅いのだった。それから、少し考える。あまり掛けたくはなかったけれど、誰かと話しがしたかった。泣きつく先を、探していたのかもしれない。彼のいない京子の番号に掛けてみた。2,3回の呼び出し音の後、本人が出た。
「もしもし。」
「あ、マキ?元気?どしたの?」
彼女は普通に話していた。当たり前だと思った。彼女は普通なのだから。
「あのね、」
私は彼女のひと声を聞いて、一気に涙が出てきた。それはもう、しゃくり上げて泣いている状態に近かった。
「どうしたの。泣いてるの?」
トーンを変えずに、彼女は言った。いつも冷静な彼女の、いつもの話し方なのだけれど、この時はひどく冷たく聞こえた。
「あのね、」
私は相変わらずあのね、しか言えなかった。それ以外の言葉を、忘れてしまったかのようだった。涙と一緒に鼻水が出てきたので、構わずにすすり上げる。しゃくりあげていた泣き方は嗚咽のようになってきた。さっきあれほど泣いたのに、一体この涙はどこからでてくるのだろうと思った。
「何かあったのね。彼?」
あくまで冷静だった。
「そう。」「振られちゃった。」
ちょっと間があった。どういう言葉を発していいのか、考えているようだった。この一瞬の間に、私は電話をする相手を間違ったと思った。
「そう。それは残念だったね。」
それはまるで、ショッピングセンターで福引を引いて、はずれが出たときに言うような調子だった。彼氏のいない彼女には、きっとこの気持が分からないのだろうと、私は思った。
「ごめん。会えたら会いたいと思ったけど、やっぱりいい。ごめんね電話して。」
そういうと電話を切った。切り間際に彼女が何か言いかけたのが受話器から聞こえた気がしたけれど、構わず置いてしまった。
1週間後、前々から予定していた飲み会があった。
あの日からほとんど沈黙を保っていた私は、当然断るつもりだったのだが、直前だったので代わりの人が見つからず、人数合わせのため仕方なく出席することにした。
「それに、少しは気が紛れるかもしれないからさ。」
その飲み会を主催した、ゆり子はそう言った。彼女は私のいちばんの相談相手なので、今まで付き合った人や片思いの人など、全てを知っている。勿論今回のことも、あの日の夜中に電話をして、一晩中話した。ずっと私の話を、親身になって聞いてくれた。そして慰めてくれた。私はそれで、だいぶ救われた気持になった。私より数倍も経験豊富で、恋に前向きなゆり子は、早く次を見つけろと言った。
当日、一次会はよくある気軽な雰囲気の居酒屋で行なわれた。男女合わせて8人だった。大勢の人が参加する飲み会があまり好きではないので、このくらいがちょうどいいと思った。お酒を飲んだせいか、この2,3日よりもずっと楽な気分になった。それでも、盛り上がる友達と相手の男の人たちを、自分には関係ないグループのような目で見詰ていたのも確かだ。
私が彼と出会ったのも、ある飲み会だったなと思った。帰り道が同じ方向になって、降りる駅も偶然一緒だったと気付いて、それで電車の、隣同士に座った。それから、お決まりのように電話を教えあった。今のように携帯やメールのない時代だったから、それは今のアドレス交換よりは、軽くはできなかったと思う。少なくとも当時の私には、軽軽しくできないことだった。
二次会になった。カラオケに行くことになった。居酒屋にいる間、何から何まで彼との思い出に結び付けてしまっていた私は、もうこれ以上耐えられそうになかった。帰ろうと思った。家に帰って思い切り泣きたいと思った。誰もいないところで、泣いてすっきりしたいと思っていた。表面上は普通の表情を装っていた私は、そんな心情を露ほども知らない参加者の男のうちの一人に、ぜひ一緒にと、ぐいぐい腕を引っ張られて、仕方なく付き合うことになってしまった。途中まで私のことを気遣っていたゆり子も、酔いが廻ってきてはしゃいでいたので、私は益々陽気に振舞わなくてはと思った。
色々な人が歌う歌に、心の中では回想にふけっていたけれど、体だけは合わせていた。体は自動的に、拍手したり手拍子したりしていた。誰かが、ある曲を入れた。最初の部分で、すぐにその曲と分かった。彼とドライブするときに、よく聞いていた曲だ。私が好きだと言ったので、よく掛けてくれていた。途端に、涙が出てきた。バラードの曲なので、皆静かに聞いていた。そのせいで、私の涙に、隣に座っていた男が気付いた。
「大丈夫ですか?」
覗き込むように、小声でささやいた。その大丈夫ですか、に単なる言葉以上の暖かみを感じた私は、ふっとすべてを、言ってしまいたい衝動に駆られた。でも、それはあまり好感の持てることではないと思った。
「猫が、」
なぜか私の頭に、とっさにこんなことが思い浮かんだ。
「飼っていた猫が、死んでしまって、それで実は私は、今喪中なんです。」
隣に座った男は、一瞬困惑した顔をして、そのあとふっと、微笑したように見えた。
「そうですか。それはお気の毒に。」
自分で我ながら、これはいい口実だと思った。辛気臭い顔していても、これなら言い訳になるだろう。男に振られたなんて言ったら、それこそ隙が、ありすぎだ。
「何歳でしたか?」
「え?」
それから男は、妙に詳しく猫のことを訊ねてきた。死んだ原因から猫の種類から性格まで。適当に答えていたが、話の途中で、ふと、この人は動物病院に勤めているのだと気がついた。ゆり子の同僚なのだった。とっさに猫と言ってしまったが、私は猫を飼ったことがなかった。犬にしておけばよかったのだ。バラードの曲が終わって、トイレに立とうとしたゆり子に、隣の席の男が話し掛ける。
「彼女、飼っていた猫が死んでしまったんだって。それで喪中なんだってね。」
「え?」
私が猫なんか飼ってないことを知っているゆり子は、ん?という顔をした。そして一瞬考えてから、あー、猫ね、と大袈裟に言った。
「そうそう、そうだったわね。オス猫。かっこいいオス猫だったわねえ。3歳半のね、オス猫がねえ、どこかへ行っちゃったのよねえ。」
彼女は咄嗟に、私の嘘に気がついてそう言ったようだった。けれど私は、さっき猫が10歳で老衰したと言ったのだった。ゆり子は私と彼の付き合ってた期間を、3歳半と言ったのだろう。
隣の男は、にやっと笑った。そして、カクテルの入ったグラスを少し傾けて、じゃあ、猫にお清め、と言った。
今日も雨が降っている。雨の日は、もっと寝坊を、していようと思う。猫が布団から出て行った。猫のいた足元に、暖かさが残っている。彼女は3歳になる、白い猫だ。
「おはよう。」
あの時隣にいた男は、いま私の隣にいる。そして今日の雨は、暖かい雨だ。
ドアを押さえながら、彼は何も言わなかった。ただ私が、ここから出て行くのを待っていた。私がここから出て行ったら、ドアを閉めなくてはいけない、それでただ、待っているだけだ。
外の空気は冷え切っていた。少し前に秋が、始まったばかりだというのに、まるで冬のような寒さだった。あまりの空気の冷たさに、まだ開いているドアの内側に、戻りたい衝動に駆られた。
「私にもう一度、チャンスはあるの?」
勇気を振り絞って、小声で聞いた。それを言うには自尊心とか、そんなものはないも一緒だった。私にあったのは、ただ、今日のことがなかったことだったらいい、それだけだった。
「ないな。」
少しの躊躇もせず、ひとこと彼はそう言った。そして私ではなく、私の後ろの、軒から落ちている雨の雫を眺めていた。私がここから出て行くことより、雨のゆくえが心配なような、そんな視線だった。
「さよなら。」
他に言うべきことばが見つからなかった。いつものように、またね、と言ってそしてキスして別れる、そんなことはもう、二度とできないのだ。
「大丈夫?」
それが心から出た言葉かどうか分からないけれど、彼はそう言った。恐らくそれは、ただ単に、今その言葉を言ったほうが、いいと思ったから言ったのだろう。私はちっとも、大丈夫じゃなかった。けれども大丈夫ではない原因は、この大丈夫と聞いている本人にあるのだから、大丈夫じゃないと答えることは、滑稽なことだと思った。そしてその言葉の響きが、今まで幾度となく言われた過去の、大丈夫、とまったく同じに聞こえたので、それで、もう、耐えられなくなってしまった。傘を広げた。後ろを向いたまま、じゃあ、と言って歩き出した。
後ろを振り返るのは止めようと思った。アパートが並ぶ狭い路地を、ひっそりと歩いた。何度ここに来ただろうか。この狭い路地を、何度こうして通っただろうか。休日の夕方は、いつもなら子供が自転車に乗ったり走ったりして遊んでいるのだが、雨の今日は、人っ子ひとりいなかった。涙で顔が濡れている私は、誰もいないことに安堵して、そして、差している傘のせいで顔を隠して歩けることに、ほっとした。
Tシャツにカーディガンを羽織った私は、両手で体を包むようにして、雨の中を歩いた。朝家を出るときは、こんなに空気は冷たくなかった。どうしてこんなに、急に寒くなったのだろう。
今何時なのかと思った。彼の口から、もう終わりにしようという発言があって、そして彼の胸の中で泣いていたのが、何十分のことだったのか何時間だったのか、よく分からなかった。別れ話を持ち出された男の、胸の中で泣くというのは、おかしいなことだったのかもしれない。プライドもなにもあったものではない。でも私達の中では、それが自然に行なわれた。それが彼の、優しさなのか冷たさなのかわからなかった。それでも私は、そうしたかった。突然の宣告で関係が終わってしまうなら、その泣いた数時間の猶予で心の整理が少しでもできるのなら、それでよかったのかもしれない。ともかく私は、今の今まで彼の胸の中で延々と泣いていたのだ。
あたりはまだそれほど暗くはなかったので、6時か7時くらいかと思われた。私は、今初めて時計を腕にしているのを思い出したかのように、時間を見た。6時過ぎだった。今日は彼と会ってくると言って家を出てきたのに、こんなに早く帰ったら、両親に何かあったと訝れるだろう。そう思うと、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
街の中の、何もかもが目に入って、そして何もかもが目に入らない、そんな感じだった。視界としては目に入っているのに、それが何かを感知できないでいるのだった。何も感じなかった。ただ、最近の彼の行動と発言ばかりが、ビデオテープを巻き戻して再生しているみたいに、頭の中に思い出されるのだった。そして総合的に考えてみると、それはすべて今日のことの前兆だったのだと思った。
電話ボックスが目に入る。傘を閉じて、半分濡れた体を入れた。雨の音が、箱の上からぼたぼた落ちてくるのが響いた。先ほどより雨足がひどくなり、側面のガラスの上を、雨粒が当たって流れ落ちていく。しばらく呆然と雨を見ていた。ボックスの中は少しだけ暖かい気がした。外の世界から遮断された、シェルターにいるようだった。流れる雨で視界が悪いのか、涙のせいなのか、外の景色がかすんで良く見えなかった。
カードを入れる。動物病院で働いている友達に電話を掛ける。呼び出し音が続いた。20回くらいの呼び出し音で、さすがにいないのだと気がついた。祝日はお休みだと思ったけれど、彼と会っているのかもしれない。それから、会社員の友達に電話を掛ける。お母様が出た。出掛けて帰りが遅くなるということだった。遠距離恋愛をしている彼女は、帰りがいつも遅いのだった。それから、少し考える。あまり掛けたくはなかったけれど、誰かと話しがしたかった。泣きつく先を、探していたのかもしれない。彼のいない京子の番号に掛けてみた。2,3回の呼び出し音の後、本人が出た。
「もしもし。」
「あ、マキ?元気?どしたの?」
彼女は普通に話していた。当たり前だと思った。彼女は普通なのだから。
「あのね、」
私は彼女のひと声を聞いて、一気に涙が出てきた。それはもう、しゃくり上げて泣いている状態に近かった。
「どうしたの。泣いてるの?」
トーンを変えずに、彼女は言った。いつも冷静な彼女の、いつもの話し方なのだけれど、この時はひどく冷たく聞こえた。
「あのね、」
私は相変わらずあのね、しか言えなかった。それ以外の言葉を、忘れてしまったかのようだった。涙と一緒に鼻水が出てきたので、構わずにすすり上げる。しゃくりあげていた泣き方は嗚咽のようになってきた。さっきあれほど泣いたのに、一体この涙はどこからでてくるのだろうと思った。
「何かあったのね。彼?」
あくまで冷静だった。
「そう。」「振られちゃった。」
ちょっと間があった。どういう言葉を発していいのか、考えているようだった。この一瞬の間に、私は電話をする相手を間違ったと思った。
「そう。それは残念だったね。」
それはまるで、ショッピングセンターで福引を引いて、はずれが出たときに言うような調子だった。彼氏のいない彼女には、きっとこの気持が分からないのだろうと、私は思った。
「ごめん。会えたら会いたいと思ったけど、やっぱりいい。ごめんね電話して。」
そういうと電話を切った。切り間際に彼女が何か言いかけたのが受話器から聞こえた気がしたけれど、構わず置いてしまった。
1週間後、前々から予定していた飲み会があった。
あの日からほとんど沈黙を保っていた私は、当然断るつもりだったのだが、直前だったので代わりの人が見つからず、人数合わせのため仕方なく出席することにした。
「それに、少しは気が紛れるかもしれないからさ。」
その飲み会を主催した、ゆり子はそう言った。彼女は私のいちばんの相談相手なので、今まで付き合った人や片思いの人など、全てを知っている。勿論今回のことも、あの日の夜中に電話をして、一晩中話した。ずっと私の話を、親身になって聞いてくれた。そして慰めてくれた。私はそれで、だいぶ救われた気持になった。私より数倍も経験豊富で、恋に前向きなゆり子は、早く次を見つけろと言った。
当日、一次会はよくある気軽な雰囲気の居酒屋で行なわれた。男女合わせて8人だった。大勢の人が参加する飲み会があまり好きではないので、このくらいがちょうどいいと思った。お酒を飲んだせいか、この2,3日よりもずっと楽な気分になった。それでも、盛り上がる友達と相手の男の人たちを、自分には関係ないグループのような目で見詰ていたのも確かだ。
私が彼と出会ったのも、ある飲み会だったなと思った。帰り道が同じ方向になって、降りる駅も偶然一緒だったと気付いて、それで電車の、隣同士に座った。それから、お決まりのように電話を教えあった。今のように携帯やメールのない時代だったから、それは今のアドレス交換よりは、軽くはできなかったと思う。少なくとも当時の私には、軽軽しくできないことだった。
二次会になった。カラオケに行くことになった。居酒屋にいる間、何から何まで彼との思い出に結び付けてしまっていた私は、もうこれ以上耐えられそうになかった。帰ろうと思った。家に帰って思い切り泣きたいと思った。誰もいないところで、泣いてすっきりしたいと思っていた。表面上は普通の表情を装っていた私は、そんな心情を露ほども知らない参加者の男のうちの一人に、ぜひ一緒にと、ぐいぐい腕を引っ張られて、仕方なく付き合うことになってしまった。途中まで私のことを気遣っていたゆり子も、酔いが廻ってきてはしゃいでいたので、私は益々陽気に振舞わなくてはと思った。
色々な人が歌う歌に、心の中では回想にふけっていたけれど、体だけは合わせていた。体は自動的に、拍手したり手拍子したりしていた。誰かが、ある曲を入れた。最初の部分で、すぐにその曲と分かった。彼とドライブするときに、よく聞いていた曲だ。私が好きだと言ったので、よく掛けてくれていた。途端に、涙が出てきた。バラードの曲なので、皆静かに聞いていた。そのせいで、私の涙に、隣に座っていた男が気付いた。
「大丈夫ですか?」
覗き込むように、小声でささやいた。その大丈夫ですか、に単なる言葉以上の暖かみを感じた私は、ふっとすべてを、言ってしまいたい衝動に駆られた。でも、それはあまり好感の持てることではないと思った。
「猫が、」
なぜか私の頭に、とっさにこんなことが思い浮かんだ。
「飼っていた猫が、死んでしまって、それで実は私は、今喪中なんです。」
隣に座った男は、一瞬困惑した顔をして、そのあとふっと、微笑したように見えた。
「そうですか。それはお気の毒に。」
自分で我ながら、これはいい口実だと思った。辛気臭い顔していても、これなら言い訳になるだろう。男に振られたなんて言ったら、それこそ隙が、ありすぎだ。
「何歳でしたか?」
「え?」
それから男は、妙に詳しく猫のことを訊ねてきた。死んだ原因から猫の種類から性格まで。適当に答えていたが、話の途中で、ふと、この人は動物病院に勤めているのだと気がついた。ゆり子の同僚なのだった。とっさに猫と言ってしまったが、私は猫を飼ったことがなかった。犬にしておけばよかったのだ。バラードの曲が終わって、トイレに立とうとしたゆり子に、隣の席の男が話し掛ける。
「彼女、飼っていた猫が死んでしまったんだって。それで喪中なんだってね。」
「え?」
私が猫なんか飼ってないことを知っているゆり子は、ん?という顔をした。そして一瞬考えてから、あー、猫ね、と大袈裟に言った。
「そうそう、そうだったわね。オス猫。かっこいいオス猫だったわねえ。3歳半のね、オス猫がねえ、どこかへ行っちゃったのよねえ。」
彼女は咄嗟に、私の嘘に気がついてそう言ったようだった。けれど私は、さっき猫が10歳で老衰したと言ったのだった。ゆり子は私と彼の付き合ってた期間を、3歳半と言ったのだろう。
隣の男は、にやっと笑った。そして、カクテルの入ったグラスを少し傾けて、じゃあ、猫にお清め、と言った。
今日も雨が降っている。雨の日は、もっと寝坊を、していようと思う。猫が布団から出て行った。猫のいた足元に、暖かさが残っている。彼女は3歳になる、白い猫だ。
「おはよう。」
あの時隣にいた男は、いま私の隣にいる。そして今日の雨は、暖かい雨だ。