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吉田元所長死去:原発立国の光と影

2013-07-10 | 報道・ニュース

原発の恐ろしさを一番知っている者として、あの福島の原発事故の実態を後世に残してほしかった、まだ・「遺書や事故に関する手記があるかどうかは確認していない」と云う事なので分からないが、周りから聞こえてくる話の分かる男として信頼が在った様だ其れだけに残念だ、本当の事を後世に残す事がご本人の有終の美・総決算になる。AO

 

 

吉田元所長死去:原発立国の光と影を背負い 2013年7月9日(火)20:53

 

吉田元所長死去:原発立国の光と影を背負い
(毎日新聞)

 東京電力福島第1原発事故の収束作業を指揮した吉田昌郎元所長(58)が9日死去した。原子炉への海水注入の中断を求める東電本店の指示を無視し、独断で注入を続けるなど毅然(きぜん)とした態度が評価された一方、震災前に第1原発の津波対策の拡充を見送ったことも明らかになった。原発立国の光と影を背負ったまま、58年の生涯を閉じた。

 「事故の記録を書こうと思っているが、なかなか筆が進まないんだ」。吉田さんは昨年、友人の医師にこう打ち明けた。回想録を出版し、印税を被災者への寄付に充てようと考えていた。しかし食道がんの治療で体調が安定せず、執筆は中断しがちだったという。

 吉田さんは1979年に東京工業大大学院を修了。旧通産省(現経済産業省)の内定を蹴って東電に入社、一貫して技術畑を歩いた。「親分肌」「面倒見が良い」と現場の信頼を集め、本店とは距離がある協力企業の作業員の人望も厚かったという。第1原発所長には2010年6月に就任し、同原発への勤務は4回目だった。

 一方、11年12月に公表された政府の事故調査報告書(中間報告)によると、吉田さんは原子力設備管理部長だった08年、従来の想定を大幅に上回る「最大15.7メートル」の津波が原発に押し寄せるとの試算結果を独自にまとめながら、「最も厳しい仮定を置いた試算に過ぎない」として防潮堤などの津波対策を先送りしたことが明らかにされている。

 事故8カ月後の11年11月、原発内で報道陣の取材に応じた際には、事故を謝罪。「想定が甘かった部分がある。これからほかの発電所もそこを踏まえて充実させていく必要がある」と答えていた。

 「一番インパクトがあったのは3号機の水素爆発(3月14日)。自分も含めて死んでもおかしくない状態だった。10人ぐらい死んだかもしれないと思った」。吉田さんは公の場で事故について語ることはほとんどなかったが、12年8月、公開のシンポジウムにビデオで出演し、事故を振り返った。

 「原子炉を安定化させることが一番重要な責務。まだ十分な体力はないが、戻ったら現場のために力を尽くしたい」。闘病の疲れをにじませながら、あくまで現場復帰に意欲を示した。

 しかし、ビデオ収録後の7月下旬、脳出血に襲われた。「事故の経過を最もよく知る人物」(政府事故調関係者)と言われながらも、真相を語り尽くさないまま生涯を終えた。東電広報部は「遺書や事故に関する手記があるかどうかは確認していない」としている。【中西拓司、神保圭作】

 ◇歴史に残る困難な事態に対応

 国会事故調の委員長として吉田さんに事情聴取した黒川清氏の話 吉田元所長には、入院中にもかかわらず、20分の予定を90分にわたって協力いただいた。世界の歴史に残る、もっとも困難な事態に対応した原発の所長としての責任感とリーダーシップ、そして現場の仲間への思いに敬意を表し、この経験が生かされることを祈念し、国会事故調チームを代表して心からご冥福をお祈りしたい。

 


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