★ 私自身はカワサキで二輪部門の企画や市場関係を担当していて、
技術関係の車の開発などには殆ど関係しなかったのだが、
この「Z1とNinja」にはカワサキの歴代のバイクの中で、
私にとっても特別の想い出があるバイクなのである。
カワサキがレースを始めた当時は『レース運営委員会』で運営されていて、
そのメンバーは、山田熙明・苧野豊秋・中村治道・高橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎・田崎雅元という
当時の技術・生産・営業のメンバーで構成されていて、
その事務局と当時のライダー契約などを私が担当していたのである。
当時はまだ各部の部課長や掛長の時代だったのだが、
このメンバーの中から川崎重工業の社長や副社長などが出ているのを見ても事業の中枢メンバーであったと言えるのだろう。
★このレース運営委員会はカワサキが初めてGPレースに参加した1966年まで存続したのだが、この年の秋を最後に解散したのである。
大槻幸雄さんは技術部の市販車開発部門に、私も営業部門に配属されることになったのだが、
その時大槻さんは私に『世界一のバイクを創る』と熱く語ったのだが、
そのバイクがあのZ1に繋がったのだろうと思うのである。
このZ1の開発当時は山田熙明さんが技術本部長時代で、
大槻幸雄さんが課長時代だったと思うが、
最初は750ccで開発が進められていたのだが、
ホンダが750ccを市場に出したので、急遽900ccに変更されたのも、『世界一のバイクを』と言う大槻さんの想いの現れだと思っている。
大槻幸雄さんとはZ1会のゴルフコンペなどで、ごく最近までお付き合いがあったのである。
カワサキの初代のレース監督が大槻幸雄さんで、助監督が田崎雅元さんだったのである。
★ Ninja900が世に出たのは1984年だから、
Z1が世に出てから12年もあとのことなのだが、
大庭浩単車事業本部長の頃で技術本部長は安藤佶郎さんだったと思う。
このバイクは「GPZ900R」として開発されたのだが、
当時のアメリカ市場から、『Ninja』と言うネーミングが提案されたのである。
『忍者』のイメージは暗いからと開発部門が猛反対で、
大庭浩本部長が自ら当時のアメリカKMC社長だった田崎さんに、その意向を伝えるべく渡米されたのである。
その席には大庭さん・田崎さんと私の3人だけだったのだが、
大庭さんの伝達に対して田崎さんは猛烈に食い下がって「YES」と言わないのである。
当時はアメリカではNinjaが流行っていて、それは黒装束の忍者のイメージではなく、『007のカッコいいイメージ』だというのである。
田崎さんはKMC社長ではあったが、川重では新部長の頃だったのだが、大庭本部長の説得を『よく頑張り通した』と思う。
事業本部長が説得すれば「Yes」と言うのが普通なのである。
そんなこともあって、最初の車はアメリカ市場だけが『Ninja』と言うネーミングで発売されるのだが、
その『Ninja』のネーミングが好評で、いろんなバイクのネーミングに使用され、今年はNinja40周年に当たるのである。
このNinja 900のエンジン担当開発者は若いころの山田浩平さんで、
山田さんとは今でもFacebookで毎日のように繋がっているのだが、
そのエンジン開発のコンセプトはZ1とは全く違ったものだったようである。
いずれにしてもZ1とNinja は『カワサキを代表する名車』であることは間違いない。
そして、それは旧く『レース運営委員会のメンバー』が
色濃く関係しているのは不思議だなと思っているのである。
そして殆ど開発などには関係していなかった私も、
懐かしい想い出を有しているのである。