Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

キャンプ旅行 ジブラルタル (Gibraltar)

2012-01-31 09:31:32 | モロッコキャンピング 2012年




1月7日土曜日の朝ロッシェのキャンプサイトを後にする。サイトのレセプションで支払いをするときにこの3日間人質の代わりに取られていた2012年のキャンピング・カードがなくなってしまった。このカードはシーズンオフでのサイトで大変な割引になるもので、スペインのサイトは異常に高いから、長期旅行者は必ず買っているもので、昨年12月インターネットで英国から取り寄せたばかりだった。
あきらめて2月にモロッコからの帰り又このサイトに立ち寄ることにした。

 

 




毎日青空でサイトの上空を鳩の群れが旋回する。今朝も明るく晴天が約束されていた。
道端には白の野生の水仙が風に揺られている。高速で走っているから写真の写りはあまりよくないが、マー仕方がないか。



昨年ここを通った時はあたり一面に林立していた風力発電機が一切の動きを止めて静まり返っていた。今日は怠け者の風車は全然見えず、ブーンといううなり声を上げて周っている。

 

 



タリファはスペインの最南端、モロッコとの距離が15Kmしかなくて晴天ではアフリカの山脈がはっきり見える。ところが今まで素晴らしい青空だったのにタリファ近くから黒雲が立ちこめ、うっすらとアフリカの山並みが見えたのは瞬間だけで,風もますます強くなった。
タリファ(Tarifa)からアルジェシラス(Algeciras)間は高い山を越えなくては行けない。ここの山脈にも風力発電機が立ち並び、大活躍中。山頂の休憩所でカメラを構えたが寒いことさむいこと。2度ともアフリカはここから見えなかった。



モロッコへのフェリーチケットはインターネットでは260ユーロ、ところがパルモネス(Palmones)のエージェントではずいぶん安いとモロッコのキャンピングブックに書かれてある。パルモネスの高速道路を降りたすぐ横に、巨大なカーフォーのスーパーがありその横手の道に小さなエージェントがあった。
もう1時過ぎ、エージェントの前の道路にはズラッとキャンパーが並んでいる。”ウワァー、こんなにたくさんキャンパーがモロッコへ渡るの!!!”私たちもその通りに駐車して早速チケットを買った。往復オープンのチケットが180ユーロ、何という違い。チケットは現金でしか買えないが、チケットと一緒にワインとチョコレートケーキをプレゼントしてくれた。
カーフォーのスーパーのあるこの地域は大型商工業地帯で、ほかにもリドルやマカドニアのスーパーやショッピングセンターなどもあって駐車場が広がっている。
私たちはエージェントの前の通りで一夜を明かしたが、リドル・スーパーの前はまるでキャンプサイト顔負け、20数台が駐車して一夜を明かした。夕方散歩がてらに広大な駐車場やショッピング街を歩いてみたらたぶん100台近くのキャンパーがあちこち停まっていた。彼らは皆このエージェントでチケットを買い、明日か明後日にはフェリーに乗るのだろう。


 

 

  
日曜日の朝、私たちはジブラルタルへ向かった。昨年来たときにジブラルタル100ポンドを引きおろしたが、残金65ポンドはイギリスの銀行では引き取ってくれない。だから行って全部使ってこなければと、まずは免税のディーゼルを入れた。英国と1リッターに付き35ペンスくらいは安い。
残ったお金はジブロルター1大きなモリソンのスーパーで食料を買い込み全額使ってきた。

 

 


英国でも食料には物品税がかからないから、運送料の分だけ英国よりも高い。大体こんなに小さな地域に込み合って住んでいる英国人たちは一体どんなことをして生活しているのだろうか?この狭い土地では一切生産物がないのだもの。オレンジなど1kg2ポンドもする。国境を越えてスペインのスーパーへ行けば生鮮食品がずいぶん安く手にはいるだろうに。



このジブラルタルとスペインの国境は飛行場で、長い滑走路を横切って道路がつながっているから今日は往復とも飛行機に邪魔されなくてスムーズに出入国出来た。

今夜はジブラルタルから北に数キロ行った小さなサイトで私たちだけしか居ない。英国やヨーロッパのキャンピングブックに載っていないからほとんどの人たちは知らないらしい。私たちは去年、英国人から教わったからこれで2回目。



今夜は満月、月の模様がよく写った。

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キャンプ旅行 モロッコ入国

2012-01-30 15:55:56 | モロッコキャンピング 2012年

モロッコへ渡る準備に英国でキャンパーの保険を再申請し1月10日から1ヶ月と決めていた。9日には又パルモネスのエージェント近くへ駐車して一夜を過ごした。



朝8時、強風に黒雲立ち込める悪天気のせいでもあって夜は明けず、10数キロを高速道路からセウタ(Seuta)行きのフェリー港へむかった。パルモネスのスーパーの駐車場では、キャンプ場と間違えるくらい駐車していたキャンパーが半数くらいのしか残っていなかった。
フェリーは6時、8時、9時、12時とあり9時のフェリーに乗るべく、30分以上も待ったがあんなにたくさん居たキャンパーが一台も見えない。

セウタはモロッコ北端にある小さなスペイン領で、他にモロッコのタンジア(Tangier)行きのフェリーが出ている。8時のセウタ行きは高速で35分、9時は50分で着く。暗い中を運転することを嫌う亭主の為9時のフェリーを選んだ。



悪天候で波が高く港を出て左にジブラルタルを見ながら気分が悪くなってきた。この数年毎回の旅で大型フェリーに乗っているが、船酔いしたのは今回が久しぶりだった。
波が高くフェリーも予定より遅れて1時間以上かかってしまった。

 



とにかくやっとスペイン領セウタに着き、パスポートチェックもなしに街中に押し出されてしまった。セウタの町は本土とほとんど変わらず、このカラフルな建築物の一角だけが珍しい。海岸通に出て1kmでモロッコの国境に着いた。

そこで目にした混雑振り、8時のフェリーで渡ったキャンパーがズラッと並んでいる。私たちのキャンパーが近くへ行くと白い長衣を着たモロッコ人がここへ来いと手招きする。国境管理の係官だと思って並んでいるキャンパーの横の車線へ行くと、長く待っていたであろうキャンパーの人たちが怒っているのがわかる。
そのモロッコ人は私にパスポートと書類を持って付いて来いという。壊れた窓にカーボードを貼り付けたお粗末な国境管理室の窓で、パスポートに入国許可印を押してもらい、キャンパーの登録をして早々に入国できた。白い長衣のモロッコ人はお礼に2ユーロくれというが、小銭を持っていなくてモロッコのお金で20DH(1.8ユーロ)をあげたら不服そうだった。

この粗末な国境管理室は4箇所あり、二人が一室でパスポート管理、他の一室は車の登録管理で、仕事が遅い。入国もひどいけど、反対の出国側などもっと大混雑、一ヶ月後のスペインへ帰るときが思いやられる。

入国したモロッコ側は一体何があるのか判らないが、100人ばかりの人たちが道の両側にびっしり集まってそのうるさいこと、女性はすべてスカーフをかぶり長い民族衣装姿。男性は洋服や民族衣装が混じりあっている。




 




そこを抜けると道路はきれいで両側に立ち並ぶ純白の建物はスペイン・ポルトガルと全然変わらない。海岸線に沿って南下したがこの辺りはヨーロッパからのホリディタウンでどんどん新しいホテルや町が作られている。








今夜のキャンプサイトはセウタから35kmくらい南のマーティル(Martil)に決めた。早く落ち着いてモロッコのお金を下ろしてこなければならない。
キャンプサイトは町の一角で設備はヨーロッパより劣るが、一応電気も水もお湯も出るから文句は言えない。海岸通は素晴らしいがシーズンオフのため店やレストランが全部しまっている。町のメインストリートも埃っぽいが、スペインの田舎の町みたい。銀行のATMで現金を下ろし、もうこれで安心。アラブのタイル模様や建築物に興味深深、写真を撮りながら歩いていたら若い男性二人、写真を撮ってくれと手まねきし、ピースなんてやっていた。愉快な人たち。やっと緊張が解けてきた。

 





お昼の12時、午後3時半、6時半9時と4回も近くの回教寺院のミナレットから大声のお祈りの歌声が流れ出し、”ウワーやっぱりここはモロッコだ”と感じいったしだい。
夕方までにキャンプサイトはフランスのキャンパーでいっぱいになってしまった。

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キャンプ旅行 フェズ(Fez)へ

2012-01-29 16:27:04 | モロッコキャンピング 2012年




朝は7時から明るく今日は晴天。キャンプサイトには22台のフランスのキャンパーが停まっていた。1800年代モロッコはフランスの植民地だったからフランス語を話す人が多い。そのせいかフランスのキャンパーがほとんどを占める。

  


朝9時にはキャンプサイトを出発した。サイトのあるマーティルから近いティトゥアン(Tetouan)の町は山の中腹までぎっしり家屋が詰っている。結構大きな町で道路も幅広く立派だが道路標識があまりない。通りの両側は南国らしく椰子の木が並んできれいな建物が多い。

  

道路の状態が良かったのはこの町までで、ティトゥアンから真っ直ぐ南に降りてゆく道は山を越え岡を越え村や町を通ってゆく。
岡や山裾はどこもオリーヴの畑で道端の私設の露天ではオリーヴの漬物を売っていたり、広げたござの上に収穫したオリーヴを干しているのが見られた。

 

 

いくつもの町では市が立っており、地面に広げた敷物の上に日用品や衣服などが売られ、どこも人々であふれていた。

  

田舎ではロバが自家用車であったり、トラクター代わりであり、かわいそうなロバがこき使われている。道路際で草を食んでいる羊を見ているのが大人や子供の羊飼いだった。彼らは自分の地所を持たないように思える。たぶん道路際は誰の地所でもないのだろう。一日中羊を追って歩き回っているようで,全行程でどこででも見られた。

 

 

 

 

南へ行くに従い風景が白っぽくなり、乾燥した山肌がむき出しだったりして、なんとなく以前に見たことのある風景。いろいろ考えてみたら、ギリシャの景色に良く似ているのだと気がついた。天気が良いときの南国はどこも良く見えるのだろう。

 

 

厚地の長いコートにフードのついた衣服はこの国の男性のオーバーに違いない。気温は20度を越え、キャンパーの中では暑くて半そででいるが、この国の人たちには寒いのだろう。特におじいさんたちがしっかりと着込んでいる。

 

 

ロンドンのマーケットで買うオレンジはモロッコ産が多いが、今日通った300kmの行程で道端でオレンジを売っていたのは一箇所だけだった。ウエザーンリフ山脈を越えた一部でしかオレンジ畑を見かけなかった。

 

 

山道ではスピードもだせないし、大型トラックがのろのろ走って数珠繋ぎで追い越せないときも多く、300kmを6時間もかかってやっとフェズの町にたどり着いた。

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キャンプ旅行 フェズ (Fez)

2012-01-28 17:02:35 | モロッコキャンピング 2012年

昨日このサイトにたどり着いた時、フェズの観光にはガイドを雇えとしつこく言われたが、隣のキャンパーのフランス人に聞くと、タクシーでメディナ(旧市街)まで行き全然心配ないといわれた。
今朝も晴天、赤いミニタクシーでメディナのルシーフ広場(Rssif)まで行った。埃っぽい車と人々の行き交う通りから一時郊外へ出て、旧市街の外壁にたどり着いた。相当の長距離でメーターを心配したが19DH(1ポンド40ペンス)あまりの安さに驚いた。

タクシーを降りるとすぐ男たちが寄ってきて、”私は貴方達ののガイドだ” ”ノーサンキュ”といっては相手にしないと引き下がってゆく。歩き回っているときに”日本人ですか”とはなしかけられ思わず”ノーサンキュ”と言ってしまった。

 

  

  

  


メディナの中は狭い通り全体が小売り店で生活にかかわるあらゆるものを買うことが出来る。又通りによって金物製造、皮製品、衣類、香辛料などと別れていて、中でも一番有名なのが皮の染色、ここはタンネリとよばれる。

  

  


この近くへ行くと特別な匂いが立ちこめあまり気持ちのよいものではない。狭い通りを歩くとタンネリの中を高い建物の上から見せるガイドなるものが居てあちこちから声がかかる。若い男が”二人で10DHでどう?”というから”それじゃ”とつれて行かれたところは、狭い階段を4階まで上がった皮製品のお店の屋上だった。真下にいろいろな染色を入れた容器に皮を漬け壁に下げて干している。これの写真は何度かプロの写真家の作品を見たことがあり、今日の色彩の少なさにすこしがっかりした。
若いガイドは皮製品を買わないかとあれこれ薦めるが、相手にせず通りに出て10DH払うと”二人で20DHだ。”此方は二人”何!!10DHといっただろうが!”此方の剣幕に恐れてすぐ居なくなってしまった。

 

 

 

 


数え切れないほどのモスクが広い場所を占め、各モスクの周りに網の目のように狭い通りと小売店が並んでいるのでここは全くの迷路、そして狭い道を多くの人と荷物を満載にしたロバが通る。それでも地球の歩き方の地図を片手に迷わず行けた。それにしても何キロくらい歩いたことか?どこまで行っても店が途切れなかった。とうとうマルーク門にたどり着き、城壁の向こうにイスラム墓地を見つけた。

 

 


その墓地の後ろの高台からメディナの全景が見える。わざわざ写真を撮るためだけに高台まで登ると、太陽は暑いが風は冷たい。

 

 

スーク街を出てプー・ジュルード庭園を回り王宮へ向かった。王宮は中へは入れないと知っていたが王宮の門にカメラを向けると、門の周りに居たポリス数人が皆で止めた。
だめなら仕方がないと王宮の塀に沿って大通りを行くと、多くのポリスが通りに立ち、赤い旗が何本も立っている。車も通行止めで一体なんだろうと若いポリスに聞くと、”モロッコの王が訪問されている。ちょっと待ってくれ。”といわれ100メーターほど向こうの門から出てきた車の一団が去ってゆくのに皆直立不動で敬礼をしていた。
道理で昨日この町へ入る頃からスマートな制服のポリスマンがいたるところで交通整理をしていた。ナールホド。

旧市街から新市街まで3kmとのことだが道を間違えずいぶん遠回りをして昼食にありついたのは3時だった。

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キャンプ旅行 メクネスからムーレイ・イドリスまで Meknesto Muray Idoris

2012-01-26 18:01:15 | モロッコキャンピング 2012年



フェズのキャンプサイトはヨーロッパのスタンダードから見れば最低で、女性側のシャワーはお湯が出ない。男性側はお湯はあるがシャワーヘッドがなくて一本の水が流れ落ちてくる。洗濯タブは排水が壊れていて床が水浸しになるし、食器洗い場にはお湯が出ない。洋式トイレは男女一つずつあるが崩壊寸前。これでキャンピング・インターナショナルとはよくも名付けたものだ。もう何年もメインテナンスはなされていないようだ。



今朝9時半頃にはサイトのオーナーに別れを告げ、フェズから約60Km西のメクネス(Meknes)へ向かった。途中の町でもモロッコの赤地に星のマークの国旗が翻りスマートな制服のポリスマンが交通整理をしている。今日は国王がこの辺りを通られるのかもしれない。



メクネスの環状線で大きなスーパーマーケットを見つけた。物価は日ごろ食べている食料品の値段で判る。全体にポルトガルやスペインより安い。特にこの地特産のオレンジは1kg30ペンスもしない。
スーパーに併設したガレージでディーゼルを入れたが1リッターが55ペンスくらい。スペインの半額で英国(世界一高い)のディーゼルと比べると1リッターに80ペンスの差が出る。どうしたらこんなに安くなるのだろうと亭主が不思議がって居る。

  

何度も道を間違え親切な人に連れて行ってもらったキャンプ場は閉まっていた。近くの観光客用の馬車の御者のおじいさんはこのサイトは5年ほど前から閉まっているという。
がっかりして城壁周囲の観光道路に駐車してお昼にした。壊れかけた城壁の上にコウノトリが巣を造っているが、コウノトリも共同生活をするのかしら。

  

メクネスの観光はあきらめ城壁を半周したところで,王都のメインゲートのマンスール門の前に出た。駐車できないからそのままキャンパーを走らせ、とうとう新市街の下町の埃にまみれたマーケットストリートに入り込んだ。同じ地域をぐるっと一回りしてしまったので、またもや親切な若い人に車で先導してもらい、やっとメクネスの町から抜け出すことが出来た。

  


メクネスから北へ25kmほどのキャンプサイトには問題なく着いたが7km北にローマの遺跡があるので落ち着く前に遺跡の観光を計画。途中のなだらかな山の中腹にムーレイ・イドリスの白い町が現れた。帰りに寄ってみようと、ヴォルビリス遺跡へむかった。

 

 

  

  


このローマの遺跡は紀元前40年頃から繁栄し2万人もの人が生活していたと言う。神殿跡や凱旋門それに浴場跡もしっかり残っていて一回り歩いてみると以外に広大な地域だった。
当時のモザイクもそのまま残っていて人々の生活がしのばれる。有名な 夏草や つわものどもの 夢の跡 の句が思い浮かんだ。ここに住んでいた人たちは戦に明け暮れたわけではないだろうが、これだけの廃墟だとわびしさが漂う。

 

 

ヴォリビリスの遺跡からもはっきり見えるムーレイ・イドリスの町は急な七曲の坂道を登ってゆくと広場が現れたが車でいっぱい。キャンパーの入り込む隙間もない。
結局山頂付近で折り返し帰ってきた。この町は1000年以上も昔からイスラムの聖都としてあがめられ、昔は非イスラムの人は町の中にも入れなかったという。ヴォルビリスから見る夕焼けは素晴らしいと聞いていたが夕暮れ前に帰ってきて、キャンプサイトからでも素晴らしい夕日が見えた。

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キャンプ旅行 モハメディアMohammedia へ

2012-01-22 18:26:38 | モロッコキャンピング 2012年

  

 

 

ムーレイ・イドリス近くのキャンプサイトは家族経営の小さなもので設備もよく、結構きれいにしてあるが,電気が夜の4時間だけしか使えない。自家発電で夜11時には停めてしまうから朝まで完全に真っ暗。 キャンパー内のうすくらい電気で日記など書き早々に寝てしまった。キャンプサイトの周囲はミモザの木が生い茂っていて、あと2ヶ月もすれば素晴らしいだろう。

朝キャンプサイトのオーナーが4台停まったキャンパーにミントティーを持ってきた。強いミントの香りと強力な甘さのお茶で、アルコール禁止のイスラム圏では一日中これを飲んでいる。

 

 

今日はサイトを去って首都のラバットを通りカサブランカ近くのモハメディア(Mohammedia)まで行く。
メクネスからティフレット(Tiflet)まで国道を走った。道端に野菜やオリーヴ、生きた鶏まで売っていた。道端の鶏が逃げたり歩き回ったりしないのが不思議だったが、よく見ると地面にさした棒に足を縛り付けてあった。この派手な面白い帽子など一体誰がかぶるのだろう。

 

 

国道は行く先々の街中を通るのでマーケットや通りの人々の生活を見ることが出来る。しかし重量を積んだトラックがゆっくり動いていて追い越せないときなど、いらいらするから、とうとう高速道路で行くことにした。高速料金もずいぶん安い。

 

 

高速道路でも道端を歩いている人が居たり、牛や羊を飼っている家族が居たりでなんとものんびりした風景。

 

 

モハメディアの手前で高速道路が終わり、国道の十字路では道路規則も何もあったものでない。皆が我先にと4方から道路へ突っ込んでくる。よくも事故を起こさないものだとあきれ返った。

モハメディアのキャンプサイトも家族経営の小さなものだがお昼に着いたときにはもう4台のキャンパーが停まっていて後何台入れるのか、早く着いて良かった。

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キャンプ旅行 マラケッシュ(Marrakesh) へ

2012-01-21 18:41:11 | モロッコキャンピング 2012年




モハメディアは海岸線にあるためか午後遅くから霧が立ち込め、空気が冷たくなってきた。
今朝の天気予報ではモロッコの北からポルトガル、スペインは雨だ。ところがカサブランカの環状線からマラケッシュへの240kmは晴天で南へ行くに従い暑くてキャンパーの窓を開けて走っていた。

  

高速道路は快適だが3回も料金徴収場がある。全行程で130 DH(10ポンドくらい)でフランスの3分の1くらいの値段だろう。また高速道路で3回もヒッチハイクをしている人たちを見かけた。信じられない光景だが誰かが停まって乗せてくれるのだろうか?
カサブランカ周辺ではいかにも貧しそうなコンクリのアパートが並び、どこの屋根にも衛星中継受信機が並んでいるのが見える。

 

 


内陸へ向かってゆくに従いこれらのコンクリの建物は見られなくなり、まるで周囲の土地と同化したような屋根の低い日干し煉瓦で作られた家が群がっている。この辺りは又良く耕された耕作地や、オリーヴ畑でありあちこちに見かけられる牛や羊の放牧には羊飼いや牛飼いの人たちが必ず居る。彼らはこの暑さの中でオーバーを着込み一日中動物たちと移動している。

 

 

又高速道路を横切る陸橋上には警察官が一人か二人づつ立っていて、スピードをチェックしている。彼らも一日中この暑さの中で立っていて大変な仕事だと同情したくなる。



国道へ入るとすぐ陶器の店がならんで居る。ほとんどがこの国の主料理のタジンに使う容器だから、観光用より当地の人たちが買ってゆくのだろう。

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キャンプ旅行 マラケシュ Marrakesh

2012-01-19 15:49:59 | モロッコキャンピング 2012年

マラケッシュにはキャンプサイトが3箇所ある。このサイトはカサブランカからマラケシュへの道路わきにあり、キャンプサイトに常設しているミニバスでマラケシュのメディナ(旧市街)まで送迎してくれる。




朝10時3人のフランス人と一緒にメディナの中では最大のベン・ユーセフ・モスクの前で降ろしてもらった。午後4時に迎えを頼み四散した。

このモスクから100メータくらいにジャマ・エル・フナ広場がある。広大な広場一面の人々とロバや馬、犬などそして広場を取り囲む小さなお店。派手な原色の衣服や飾りといたるところから湧き上がる音楽や物音、混沌の世界が広がっている。

このメディナのスークは世界最大といわれ、世界遺産にも登録されているが、旧スークは道も狭く、迷路が多いとあって買う気持ちがないときには疲れるだけ。広場の北、新スークの方が客引きが少ないとの情報で真っ直ぐそちらへ向かった。

  

 

 


広場にはオレンジジュースの屋台がズラッと並び、ニッポンジン?とかコンニチハとの声がかかる。いかにこの辺り日本人観光客が多いかがよく判る。新スークは道幅がやや広め、軒並み色とりどりのあらゆる品物が積み上げられている。モロッコ人は写真を撮ると魂を撮られると信じているそうで真っ直ぐカメラに収まってくれない。カメラを向けると横を向いてしまう。

 

 

 

 


これほど同じ商品が多くの店で売られていて、誰もが共倒れにならないでやっていけるのも不思議。飾り物や重い陶器など買う人も少ないだろうに。この新スークは地元の人たちの生活用品を売っていて値段も安めとの事だが、私が買ったのはこのカラフルなお菓子だけ。

 

 

100DHを100グラムと思い頼んだら小さな箱にとりどり入れて100DHを請求され50Dh(4ポンドちかく)に負けてもらったがそれでもぼられたと思う。地元の人がこれだけのお菓子に50Dhも払えるはずがない。タクシー代が20DHもしない国だ。このお菓子はトルコやエジプトに似ているがこれほど凝っていない。材料はデイツと蜂蜜で甘みをつけたすりゴマやココナッツなどで美味しくていくらでも食べられそう。さすがフランス系の味付けで上品に出来ている。


 

 

 

 

  


スークは楽しいが、ショッピングに興味のない亭主はすぐに飽き、観光に行こうという。地図を頼りにバイア宮殿へ、入場料はどこも10DH(約75ペンス)室内装飾の素晴らしさはスペインのイスラム宮殿で見たそれとすこしも劣らない。石の細密彫刻やカラフルな天井装飾などここはモロッコでも特別な宮殿に違いない。オレンジやレモンやしの木などが生い茂る中庭は姿が見えないが鳥の鳴き声がすざましいほど。どんなにきれいな南国の鳥が居るのだろうとカメラを構えてたたずんでいたがほとんど姿を見ることがなかった。

 

 



バイア宮殿から近くのエル・バディ宮殿は、16世紀アフメド・アル・マンスール王が25年の歳月をかけて建築したものだそうだが、今では廃墟になっていてどれほど絢爛豪華な宮殿だったか想像するしかない。
この宮殿を取り囲む高い塀の上はコウノトリの住居になっていて、それぞれ木の枝やごみを集めた大きな巣を作り夫婦が仲むつまじく住んでいる。一羽が巣に戻ってくると嘴を打ち鳴らし首を上下させて挨拶している。こんなにたくさんのコウノトリをこれほど近くで見たことはない。嘴を打ち鳴らすカタカタカタ・・という音は廃墟の宮殿にこだましていた。

 

 



サアード朝(1549-1659)の墳墓群は代々のスルタンが葬られた墓地で、隣のモスクからの道は17世紀壁で塗りつぶしてしまったため、1917年に上空から発見されるまで存在を知られることがなかった。400年近くもメインテナンスもなされないでこの墓朝が崩壊しなかったことは驚きだ。墓朝は3つの部屋からなりスルタンやその家族の大小の墓が安置されている。



午後2時過ぎ広場の近くのレストランでケバブなど食べて腹ごしらえ、ベン・ユーセフ・モスク近くの伝統工芸館へ行き帰宅時間まで過ごした。
ここはモロッコで作られるあらゆる物を行程作業を見せ、同時に販売も行っている。ここは公定価格が設置されているが、スークよりずっと高め。

カーペットやベッドスプレッドの織物類や、金属、皮製品、木工、家具などあらゆる物が作られ売られていた。作業場では撮影禁止か有料だからここでは写真は控える。

4時に迎えのバスに乗ったときはどっと疲れが出た。あの混沌な人ごみだけで疲れてしまう。よくもこれだけの人と車があらゆるところに蠢いているのだ。

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キャンプ旅行 アトラス山脈越え

2012-01-18 12:03:24 | モロッコキャンピング 2012年




マラケシュの町外れに巨大なスーパーマーケット”マージェンヌ”があった。アトラス山脈を越えると一体どんな状態なのか判らないから、野菜、果物、パンなどしっかり買い込んだ。ここでもディーゼルを満杯にして10時にマラケッシュの町を後にした。

 

 

 

 


町を出てもあたりは辺りは真平らでオリーブ畑や野菜畑が整然と並んでいる。遠くの山が白く輝いて雪なのか岩なのかといぶかりながら数十Kmを走り望遠で写してみた。確かに雪山に違いない。アトラスにも雪が降るなんて思いがけず、緑で覆われた谷間や日干し煉瓦で造られた平らな家々の集落を見ながら山すそからゆっくり登っていった。

 

 

  

急カーブの道端に色鮮やかな石をお土産に売っている。アメジストやルビーのつもりなのだろうが、私たちにはチュニジアで苦い経験があるから絶対停まらない。チュニジアの田舎道で数軒の土産小屋があってそこで一塊の紫水晶を5ポンドくらいで買った。喜んで持ち帰ったが、娘がこれはまがい物と指をなめて石をこすると色が落ちた。色ガラスでもなくガラスの上に紫色をかけただけ。あんなにがっかりしたこともない。

 

 

 

 

 

 


12時近く道端でコーヒー休憩にした。ローカルのアラブ人が通りすがりに話しかけ、はじめはお金を欲しいといっているのかと思ったが、乗せて欲しいといっているようだ。
断ったがここから先は急坂で一面の雪山、あの男性はこの山を歩いて越えるらしいと気の毒になった。辺り一面は雄大な雪景色、道路だけは雪も氷もなく九十九折の急坂をのろのろと登っていった。これでもかこれでもかと思うほど上り坂が続いて時々お土産店があったりする。

 

 

 

 

 

 

やっと下り坂になってくると急速に雪は消えてきた。アトラス山脈を越えると道は平坦になりほとんど水の無い川に沿って、ワルザザートへの一本道が延びていた。

 

 


ワルザザートはアトラス南部では相当大きな町でここへはバスか飛行機でしか来れない。
この町は1920年、フランス軍が最前線基地を築いたところから発展し、ここはサハラ砂漠の入り口といわれている。

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キャンプ旅行 アグデズ(Agdz)

2012-01-17 12:29:18 | モロッコキャンピング 2012年


ワルザザードから道は二手に分かれ、一方は南のザゴラ(Zagora)へ行く道と東のカスバ街道へ。カスバ街道は数日後に行くことにし、今夜のキャンプサイトのあるアグデズへと南下した。

 

 


ワルザザードを過ぎるとあたりは不毛の岩山になり又一山越えてゆく。荒れ果てた平野にサッカー・グラウンドがあり笑ったが、大岩を過ぎると結構大きな土レンガの集落だった。こんな田舎でもサッカーはやるらしい。

 

 

 

 

 

 


 

 

岩山をめぐってゆく道も眺めは最高、シャッターを押し続けていたからとうとうバッテリーが切れ掛かった。山の一箇所に大型バスが停まれる位の広場があり、ここからアグデスの町と緑の平野が見渡せる。キャンパーを降りて写真を撮ろうとしていたら、どこからかモロッコ人の若者が腕にちゃちなネックレスを下げて現れ、しつこく買ってくれと迫った。数枚の写真だけであわてて下山。あの場所が観光客のシャッターチャンスの場所だったらしい。

 

 

 

 

今夜のサイトは設備は小さいが、よく手入れされ清潔でキャンパーも10台近く停まっていた。夜中の1時、真っ黒の空に星が降るほど瞬いていた。アフリカの、サハラ砂漠の、星空だ。

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キャンプ旅行 アグデスのカスバー

2012-01-16 09:30:01 | モロッコキャンピング 2012年

 



3泊もしたこのアグデズのキャンプサイトはその名もカスバー・デ・パルメライ(ナツメヤシ林のカスバー)という。
カスバーとはオアシスの中に高い城砦を持つ家屋で、砂漠の遊牧民が水のあるオアシスに落ち着き、強力な部族がこのような城砦を築いたもの。サハラ砂漠にはオアシスごとこのようなカスバーがある。
ここのキャンプサイトはカスバーの庭を開放して造られたもので、カスバー内をガイドツアーで見学できる。
ガイドはキャンプサイトに働いている若いドイツ人の女性で、4ヶ月間このサイトで働きながらアラビア語の研修をしていて、昔6年間英国にも住んでいたことから完璧な英語を話し、フランス語、ドイツ語、そしてアラビア語も話せる素敵な人だった。

 

 

このカスバーは本家が隣にあり数百年経っているが、私たちの訪れたカスバーは新しくてまだ180年しか経っていない。入り口からすぐに回廊を持つ広い中庭があり、ここは昔は22本のオレンジの木が茂って、夏の40度以上にもなる暑さを和らげていたが1980年代に10年も雨が降らなかったため枯れてしまったそうだ。

中庭の周囲は客室用宿泊施設になっていて、狭いながらも清潔な居心地よい設備になっている。昔はカスバーは一族250人にも上る人たちが共同生活していたところで、長老以下家族や奴隷まで住んでいたから大家族だった。今ではこのカスバー内は旅行者の宿泊に利用されている。

 

 

一階には窓がなく天井から明かりを取り入れていた。屋内の柱や天井の梁などは全部椰子の木を使っており、壁はすべて日干し煉瓦を使っているが、このカスバーは比較的新しいため、主要な柱にコンクリートを使い、外塀にはわらを混ぜ込んだ土壁を塗りこんでいる。

 

 



二階,三階には家族が集まるメインの部屋から周囲に小部屋が多く、新婚の夫婦だけには鍵つきの部屋が与えられた。四階くらいには一夫多妻であったから妻たちが憩えるきれいな部屋や窓から中庭が見下ろせ、昔は中庭での客を招いた宴会(男だけの)をそっと覗きみていたであろう。
ナツメヤシ(デイツとよぶ)を乾かしている小部屋があった。この国のデイツは国内で消費され、輸出されることはないという。デイツはこの国の主要炭水化物で日本人の米、イギリス人のジャガイモにあたる。

  

このきれいなタイルはポルトガル産だがアラブ模様を取り入れている。暑い国ではタイルを利用することで暑さを和らげるが、冬や夜の寒さも又格別で厚地のカーペットなども必需品だ。昨日一日青空だったが風が異常に冷たく、又アトラス山脈に雪が積もったかも知れない。テレビニュースでは隣国のアルジェリアで雪が降ったと伝えていた。昼と夜の気温差が激しく20度を越える。昨夜はマイナスまで下がった。



隣の巨大な建物もこのオーナーの従兄弟に当たるカスバーでここが本家、このカスバーは中を美術館、博物館のようにしているが、この地方で撮影された映画、アラビアのロレンスの舞台に一部使われたという。このカスバーのほうが巨大で奥はメインテナンスが行き届かず、前方だけが宿泊施設になっているらしい。



この本家のカスバーの隣の建築物は半壊しているがここは昔の村だったそうで狭い迷路が続いていて、今も住んでいる人が居るという。このような土の建築物はいったん雨が降ると簡単に崩れ落ちてしまうため、常時手入れが必要だが、それをする人が居ないという。

 

 

 

  

ガイドのイーナに拠ればこのカスバーは毎年3月ドイツからこのような建築物を保存する大学教授と学生たちがやってきて、ボランティアに保存技術を学び、修理修復しているという。日干し煉瓦が積み上げてあり、これはなんと脆そうなレンガだこと。

  

屋上からの眺めは素晴らしく、遠くの山すそに次のオアシスとカスバーが見える。

 

 

キャンプサイトのレセプション付近にはきれいな水を湛える小さなプールがあり、オアシスは水不足のイメージがあるのに、このオアシス周辺は地下水が通っていて、井戸水をポンプでくみ上げている。キャンパーの周りにパンくずを求めてやってくる鳥は雀に似ているが雀より小さく色が濃い。モロッコ一帯に見られる小鳥だ。

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キャンプ旅行 ワルザザート(Ouarzazate)

2012-01-15 15:21:29 | モロッコキャンピング 2012年

今朝はこの冬一番の寒さだった。キャンパーの中では一晩中電気ストーヴを入れて暖をとっているが、キャンパー内で10度、外はもちろん零下だった。又アトラス山脈に雪が積もって山越えできなかったらどうしようなどと心配してしまう。
砂漠地方は乾燥していて夜も夜露が降りるということがない。洗濯物は手絞りでも日中に数時間で乾いてしまうが一晩中夜空に干していても朝までには乾いてしまう。
昼と夜の温度差が激しく昨日の日中は20度を越えたが夜は零下だった。

昨日ガイドしてくれたドイツ人のイーナはこのオアシスキャンプサイトがとっても好きで、約束の4ヶ月が過ぎたらどうしようと心配していた。只ここで手に入らないのがチーズだというので、昨日お礼に冷蔵庫に保管していたチェダーチーズを封も切らないで丸ごろあげた。彼女の喜びよう・・・・。

今朝はサイトを去るときに彼女はカスバーへ行ってて別れが言えなかった。レセプションの男性にさよならを伝えて、この3日間をのんびり過ごしたサイトを後にした。

 

 


キャンプサイトからメインの道路までは3km、埃っぽい道を学校へ行くのか帰るのか若い学生たちが歩いている。モロッコ人は車がよけてくれると信じている風で道端へよけることがない。

 

 



 

 

  

アグデズの町から又北のワルザザートへ戻って明日は東へ向かう予定。今夜はワルザザートのキャンプサイトに停まるから急ぐ必要がない。岩山の大景観を見ながら途中で何度もカメラ休憩、アグデズへ来るときにしっかり写真を撮ったのに、反対方向へ行くと又新しい景色が見えてくる。

 

   


  

ワルザザートのサイトには12時過ぎに着き、午後はサイトから800メータ離れたところの大きなカスバーへ向かった。入場料一人20DH(約1.5ポンド)、ガイドは100DHというから断り、迷路のようなカスバーへ踏み入った。
一階は窓がなくて暗いし、上階へ行けば行くほどきれいな装飾の部屋が現れるのは昨日と同じ。アラブ模様のタイルも昨日アグデズのカスバーで見たのとよく似ている。大小さまざまな部屋とあちこちで行き止まりの廊下をさ迷い歩いてやっと元の入り口に帰ってきたが、昨日ほどの感激はなかった。この巨大なカスバーは今でも住人の居るところはドアを締め切って、観光客は一部しか見られないようになっている。
ここのほうが大きくて装飾も立派なのが多いが、結局カスバーは一軒見ればそれでいいのかもしれない。

 

 


そのまま町の中心スークのある広場まで行ったがここのスークはあまり活気がなく閉まっているのかと思った。あちこちから日本語の片言で、土産屋が声をかけてくる。いかに日本の観光客が多いのかよく判る。
ワルザザートは比較的新しい町できれいなホテルが並びレストランや、お菓子屋さんなどもあるからスーパーマーケットを探していったが、只一軒あるスーパーは小さくて、亭主が求めるブラウン・ブレッドがなかった。

 

 

キャンプサイトの近くの広場には野菜果物の出店が並び、ここで卵を10個買った。値段がわからないから10DHを渡したら自分で選んで袋に入れろという。

一番目に付いたのが中古車の部品のがらくた。まるでゴミ箱を空けたみたいだ。

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キャンプ旅行 ダデス渓谷

2012-01-14 15:46:13 | モロッコキャンピング 2012年



今朝10時ワルザザートからアトラス山脈と平行に東へ向かった。町を過ぎるとすぐにあたりは広々とした荒野になり時々オアシスにオリーヴや椰子の林と小さな村が街道筋に現れる。空は真っ青に晴れ渡り外気温は11度。荒野に時々うっすらと白いものが現れるが、あれは雪か、塩かで意見が対立した。夜は零下になるのだもの雪が降っても不思議でない。只湿度が30パーセント以下だから、雪になる水分が空気中にないかもしれない。

 

    


 

 


時々砂漠に橋が現れ、水の干上がった川床を何度も見かけた。途中の村では日曜マーケットが開いていて、オリーヴの苗木を売っていた。一本持って帰りたいものだ。
マーケットへ向かう人たちが続々歩いており、ヤギを積んだ小型トラックを数台見かけた。
それよりも生きている黒いヤギを襟巻き風に両手足を持って肩にかずいて歩いているおじいさんには笑ってしまった。写真に撮れなかったのが残念だ。彼の唯一の財産だったのかも知れない。

  

  

ブーマルン・ダデス(Boumalne Dades)の町から北へ30kmほどダデス峡谷へ分け入った。細々と流れる谷川に沿った道は、雄大な赤い岩山が続き、谷間はきれいに耕やされ明るい緑の野菜が育っている。乾燥した土色の風景の中での緑はホッとする。

  

途中の奇岩と言ってよい丸みがかった岩の連なりは、先日見たNHKのテレビでは青森・下北半島の奇岩を13仏と呼ぶ。私はここの岩に100人仏と名づけたい。イスラムの国で仏の話をすると宗教戦争になるかなー。渓谷の奥は七曲の急坂で対向車を心配しながら登って行った。

  

  

渓谷をずんずん登って素晴らしい模様のある山に囲まれた村にたどり着いた。これ以上にも道は続いているが、渓谷を抜け出たのでここで折り返すことにし、駐車して昼食にした。
ローカルの子供たちが自転車でやってきて、何かをくれと言う。私はこれが我慢ならない。どうして誰も自尊心がないのだ?物乞いをすることを恥と思わないのがアラブ人に多い。

 

 

 

 

イスラムではもてる人は持ってない人に施しを、との教義から、もってない人はもらって当然という気になるらしい。キャンパーを走らせていると、道端で手を振る人たちが多く、はじめは何とフレンドリーな人たちと思っていたが、手を振って必ず何かくれというように手を出すのが、気にいらない。



昼食を終わってゆっくりブルーマン・ダデスの町まで戻ってきた。町外れのホテルの庭がキャンプサイトになっていて、今夜は久しぶりに英国キャンパーがもう一台停まっている

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キャンプ旅行 トドラ渓谷 (Gorges du Todra)

2012-01-13 16:11:18 | モロッコキャンピング 2012年



 

 

今朝まだ朝日の昇らない7時に起きて、すぐホテルの外へ出てみると、砂漠の遠くに連なる山々が朝日で真っ赤に染まってきた。朝日は遠くの岡に上にチラッと顔を覗かせたと思った瞬間あっという間にぐんぐん上って、まぶしくて写真も撮れない。
ホテルに向かって帰るのに朝日が後ろから照り輝いているから、砂漠の石も、草も、私も陰影がくっきり浮かび上がった。

夕べ同宿した英国車のおじさんはモロッコ大好き人間で、今回が5回目だという。そしてこんなに寒いことは今まで一度もなかったというから、昨年からの気象異常は今も続いているらしい。

 

 

 

 



 

 

ティネリールの町はこのサイトから50Kmほど東へ行ったところで、トドラ川に沿ったオアシスは大きく椰子の森が素晴らしい。辺り一面の土の家屋や、カスバーが連なり、急坂をぐんぐん上ってゆくと約15kmで両側に切り立った岩山が現れた。きれいな流れを右に見ながら奥行き200メータくらいの渓谷を通る。こんなところにも土産屋が数軒軒を並べていた。
普通の観光バスはここまででこれ以上を上ってゆくのは、地元の運送トラックや、村人ぎっしりのミニバス、そして私たちのようなキャンパーだけだった。

 

 

  

道路は一応舗装されているが、あちこち穴ぼこ、落石注意の山道で、あきれるほど長く渓谷が続いた。道の傍には水の干上がった川床が白く広がり、食べる草もないだろうにヤギの群れがうごめいていた。

  

トドラ渓谷をずんずん上ったところはなだらかな盆地で、結構大きな村に行き着いた。たくさんの子供たちが狭い通りの両側で遊んでいて、ボンボン(飴)をくれとねだる。それも村全体で何十人の子供が居たのだろう。皆がキャンパー・イコール・飴という態度でうんざりしてしまった。


 

 

 

   


村はずれの畑はきれいに耕かされ、谷川では村の女たちが洗濯している。通りのあちこちで男たちは座っておしゃべりしているか、お茶を飲んでいる。背中いっぱいに荷物を背負って歩いているのはすべて年取った(様に見える)女性で、この国の男尊女卑は日本の戦前戦後直後とよく似ている。

村の端に変わった墓地が現れた。この地方は相当貧しいらしく、墓石はこのような石のかけらで3箇所の結構広い場所を占めていた。アトラス山脈以南にはモロッコの先住民族であるベルベル人が住んでいて、彼らの生活様式や伝統は後にモロッコに入ってきたアラブ人とは異なる。

この村のはずれで折り返して下山したが、土産屋のある渓谷で、若い東洋人観光客を多く見かけ、”日本人ですか?”と声をかけると”はい”日本から?””はい”ウワーやっぱり日本人はここまで来るんだ。と嬉しくなった。



今夜のサイトは渓谷を下りた谷川のほとりで、椰子の林に囲まれた気持ちのよいところだった。

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キャンプ旅行 砂漠へ

2012-01-12 16:31:28 | モロッコキャンピング 2012年



前夜まで後一日この川淵のサイトでゆっくり過ごすつもりだったが、急に気が変わって10時過ぎてメルズーガ(Merzouga)の砂漠を見に行くことにした。

ここトドラ峡谷のサイトはティネリールから10km山に入ったところで、ティネリールまでの素晴らしい景観に歓声を上げ、悪路に悩まされて下山した。ワルザザートからエル・ラシディアまでのアトラス山脈に平行に走る道路N10はカスバ街道(Route de Kasbahs)と呼ばれ、道路に沿ったオアシスにカスバをもつ村が連なっている。

 

 

ティネリールの町を外れると、急に道の両側にはビニール袋が散乱したゴミ箱をひっくり返したような有様で、数人の掃除人が草に絡まったビニールを取る作業をしていた。それにしてもこれが1km以上も続くと大変な仕事だ。
又モロッコは治安が良いのは、どこの道路を行っても数十キロごとに交通検問している警察官に負うところが大きい。砂漠の家一軒見えないところでも警官が数人立って車を停めて調べている。私たちは一度も検問に引っかかったことはないけど。

 

 

ティネリールから50km程行った処からカスバ街道のを離れエルフード(Erfoud)までの近道(80Km)があった。幸い道路の状態も良く、起伏のほとんどない道で、周囲は広大なオアシス地帯。村の広場では朝市が開かれて買い物客でごったがえしていたり、ある村では自転車が一番の交通手段らしく、若者皆が自転車に乗っている。

この国でいちばん酷使されているのがロバと農婦だろう。女性の加重労働は見てるのも気の毒なくらい。

 

 

 

 

途中で3台のフランス・キャンパーに追いついて、私たちまでそのグループの一部のように見える。村の中を4台のキャンパーが連なってゆくと、もともと通りにぼんやり座っている地元の人たちが驚いたように見る。ところが途中ですれ違ったのが10数台のフランスのキャンパーで、皆が笑顔で手を振り、中には両手を挙げて振っている人たちも居て思わず笑ってしまった。それにしても彼らと同じサイトにならなくて良かった。

 

 

砂漠の真っ直ぐな道路を走っているうちに、道端にたくさんの黒ヤギとらくだが群れている。望遠で見たらそんな砂漠の中に井戸があり、らくだが集まって水を飲んでいた。砂漠の中の道路標識にはラクダに注意、これがイギリスだと羊か鹿、ノルウエーやフィンランドだとトナカイに注意となるから国によっていろいろ面白いものだ

 

 

4軒の大きなテントが道端に並べられ、砂漠の民ノーマッド達が観光客にお茶のサーヴィスをするのだ。テントの前で呼びかけている人たちを尻目に先へ進む。

 

 

エルフードから15kmで着いたリッサニの町の入り口には立派な門があり、街の通りは日用品店や土産屋が並んで居る。通りはトラックや手押し車、ロバや、トラクターまであらゆる物がごちゃ混ぜでせわしない。



リッサニから35km砂漠の真平らな地の向こうにすみれ色の砂山が見えてきた。今夜のキャンプサイトは大砂丘のすぐ前で、これほど近くに砂丘を見るのは初めてかもしれない

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