Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

これが最後のキャンプ旅行―カバナス・キャンプサイトの友達

2019-01-31 18:42:37 | ポルトガル18-19

このキャンプサイトへやってきてもう3か月が過ぎた。この巨大なサイトでは、隣や向かいに停まっているキャンパーの人々ともあいさつ程度で、名前も知らない。

タヴィラキャンプサイトからの体操仲間のマイクとシオナが一番親しい人たちだろう。彼らは湖水地方にBB(ベット & ブレックファースト)を経営していたが、一昨年でやめて家を改修して売りに出すとのこと。マイクは私より1歳下、奥さんのシオナはスコットランド人でまだ58歳。まだまだ働き盛りだからと、タヴィラのチャリティショップで、週3日の無料奉仕をしている。

マイクは昔学校の先生をしたこともあり、なんでもよく知っているから、タヴィラに居た時は、あだ名上手なアランからプロフェッサーとよばれていた。おしゃべり好き、人好きの彼には、油を売るという言葉を教えてあげた。

 

タヴィラでマイクの隣にキャンプしていたおじいさん・アリステァーは昔潜水艦の乗組員だったとのことで、昔船乗りだった我が亭主と話が合う。昨年秋からタヴィラのキャンプサイトで停まっていたが、あまりに寂しいからとこのキャンプサイトへ移ってきた。聞いたことはないが奥さんには死に別れて、一人でキャンプしている。クリスマス時期には2週間孫に会いたいと帰国していた。

独り身と言えば体操仲間で知り合ったドイツ人のクリステル、ご主人は5年前に亡くなり、一人で7.5メータのキャンパーを運転してこのサイトへやってくる。

子供もいなくて、自宅周辺には親戚兄弟もいないから、冬の間ここのサイトで大いに楽しんでいるのだろう。毎日いそがしい人でドイツ人の友達がお昼に誘って出かけたり、数十人のドイツ人散歩グループと一緒に歩き回ったりしている。

彼女は77歳というが背が高く贅肉のない素晴らしい姿で、一緒にサーキットトレーニングをしていても体の柔らかさは抜群、羨ましくなる。

私が作ったアフガン編みのブランケットを見て、ぜひ教えてほしいとのことで、彼女のキャンパーへ行った。ゆったりしたキャンパーでいろいろおしゃべりして、身の上を聞いたり写真の見せあい、彼女が作るかぎ針編みのソックス(部屋履き)の作り方を教えてもらった。今では一番親しい友達になった。

サーキットトレーニングをしている仲間のジューリーも2週間前、今日は私の誕生日よ。今日で58歳になった。と嬉しそう。”イヤー羨ましいねえ、私が貴女の年頃にはまだ退職まで2年もあると指折り退職の日をまっていたのに・・・・”

彼女はこのキャンプサイトの中にある個人のシャレーを買っていて、そこで生活している。そして彼女は捨て猫のチャリティーをしていて、毎週猫のえさをもって出かけていく。

毎週3日ヨガやピラテスを教えてくれるイギリス人のヘーゼルは、2週間前から2月いっぱい、インドへヨガの修練に出かけて行った。毎年この時期行っているらしい。

毎週水曜日午後はジムの隣の会議室でアートクラスが開かれる。キャンプサイトの中で水彩画を描いている人や編み物のおばあさんー彼女は足が不自由で電動車いすでトイレやシャワーにも行くが、アートクラスには車いすを下に置いて階段を歩いて上る。英国中央部の訛りのひどい人でいまだに名前を知らない。

このアートクラスにはキャンプサイトの人たちだけでなく、タヴィラやカバナスで家を買ったり借りたりして生活している英国人女性が5-6人いて、このクラスが彼女たちの集り場所になっているらしい。皆編み物やパッチワーク、カード造りをしているが、おしゃべりが楽しみで来ているのでうるさい。

いろいろな人がいるものだと感心しているこの頃。

 

 

 

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これが最後のキャンプ旅行―三寒四温のこの頃

2019-01-31 17:20:58 | ポルトガル18-19

12月初めから今までに雨が降ったのは2回ほど、それも地面が濡れた程度だった。先週の英字新聞では今年も深刻な水不足になるとの大見出し。

近い将来、ポルトガルの気候は地中海対岸のモロッコと同じようになるとのことで、それが続けば 砂漠が広がっていくということだろう。

三寒四温のこの頃、冷たい風が停まるとすぐに近くを散歩している。

 

食べられるというこの花も色がとっても気に入っていて、見るたび写真を撮ってみる。 

 

 

 1月半ばからはアーモンドの花が満開。春爛漫と思わせるが、日本の桜のように豪華に咲かない。

 

 

藤棚のような高い木組みの棚いっぱいに広がり咲き誇っているこの不気味な花、色もサイズも気に入らないが、南国ならではの花だから好きな人もいるかもしれない。

 一月から三月ごろまでアルガーヴの周辺を真っ黄色に染めるバミューダバタカップの花。

初めて見たのがシシリー島だったから、この花は地中海沿岸の一番繁殖力の強い雑草に違いない。

 

 

カバナスの町から川渕に行くと、足長くちばしの長い鳥がえさを食んでいた。

 

 

今の時期は何処でも見られる貝採りの人々。河口に近い川端で水が引いていた。

 

 

鈴なりのパパイアの木だけれど葉が全部枯れてしまっている。果物は葉で作られた太陽の恵みから実るから、このパパイアはダメなのかもしれない。この農場にあるほかのパパイアの木はしっかりビニールシートに覆われていた。1月の朝夕は寒く、気温も5,6度まで下がったこともあったから、南国の果物の木には寒すぎたのだろう。

 

駅まで行く新しい散歩道を教えてもらったので、さっそく歩いてみた。

 

遠くにオレンジ農家が見え、木々の間が黄色のバミューダバタカップで満開。

 

 

 

 コンセイシャオ(consecau)の駅の周辺はどんどん新しいアパートメントが建っている。

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これが最後のキャンプ旅行―タヴィラのキャンプ仲間

2019-01-29 22:36:49 | ポルトガル18-19

昨年までいたタヴィラキャンプサイトの仲間たちが12月末から続々タヴィラへ帰ってきた。

まずはオランダ人のマールースと彼女の旦那のアドで、昨年はキャンパーも隣同士だった。アドは昨年夏に80歳になり、記念にロンドンへ数日行ってきたという。アドは退職弁護士で、昔ロンドンで数年住んで英語を習いフランスでもフランス語を学んで、数か国語が話せる。はじめ会った時はなんだか気難しそうな人という印象があったが、話してみるとユーモアのセンスがあって面白い。昨年春まで一緒にラジオ体操をして、彼の指導のストレッチもして皆が和気あいあいとしていた。

二人でタヴィラのキャンプサイトに落ち着いて、私たちのいる隣町のキャンプサイトまで自転車でやってきた。このキャンプサイトを案内して上げ、サイトのレストランで昼食、大きなビーカー満杯のワインを飲み、レストランの中庭でおしゃべりに興じた。

タヴィラのキャンプサイトは値段が2倍に上がったけれど、タヴィラの町まで歩いて行けるのが魅力で、当分タヴィラで滞在するそう。マールースの双子の姉妹も2月にはタヴィラへやってくるからそれまでは、よそへ行けないそうだ。

1月上旬ロジャーとペニー、ジョンとステファニー、ディヴとバーバラ、コリンとダイアンの4組が英国ポーツマス港からスペインのサンタンデル港へフェリーでやってきた。

ディヴは一昨年秋ポルトガルへの出発準備をしているときに、キャンパーの外に置いた踏み台から落ちて肩の骨を折り、ポルトガルへは来れなかった。今回タヴィラには一泊だけして、アルガ―ヴの西へ向かって行ってしまった。

コリンとダイアンは、昨年までタヴィラでキャンプしていたが、コリンの肺がんは手術不可能とのことで、今年は彼らの巨大なキャンパーを売り払って、近くのホテルの一室を長期レンタルして避寒している。

 

1月半ば、これら英国人の集りで作っているタヴィラ・ランチョン・クラブをいつものレストラン・チコ(Xico)で開催した。ワインを飲んでそれぞれオーダーした昼食で大いに楽しんだ。

 

一年ぶりの再会で積もる話も多く、食事の後は近くのコーヒーショップでおしゃべりに余念がなかった。

ジョンとステファニーは翌日からディヴとバーバラのいるキャンプサイトへ向かい3月頃にタヴィラへ戻って来ると言う。

タヴィラのキャンプサイトの急な改革で昨年までの仲間がバラバラになってしまった。

 

それから数日後にフランス人のウーバーとジョセリン夫妻が突然私たちのキャンプサイトへ訪ねてきた。彼らもタヴィラで親しくしていた仲間で、昔フランスの警察官だったウーバだけが英語が話せて、彼がいつもジョセリンの通訳を兼ねていた。

この夫婦、ジョセリンが18歳の時に産んだ娘の子供がもうすぐ出産予定で、彼女はひいおばあさんになるそうだ。ジョセリン68歳、ウーバーは58歳の変則夫婦。ジョセリンは若いころとっても美人だったらしく、若くして離婚後10歳年下のウーバーと再婚したというから、彼女の魅力は外観だけでなく性格が良かったのが一番の要素だったと思う。私より小さくてコロコロ太ったジョセリンにウーバーはとっても優しく尽くしている。

昨年2月まで毎朝一緒に7㎞の道を散歩していた英国人のスーは、ご主人と巨大なアメリカのキャンパーに乗っていて、最近スペインへ旅立っていった。

スーは元美容師で背が高い金髪の美人、ご主人の退職と同時に、自宅を売り払い、老後のために小さな家を買って今は貸家にしているそう。その差額のお金で長さ10メートルのキャンパーにベッドルームも2室、普通のアパートと変わらないサイズのゆったりしたキャンパーで年中生活している。

 

 

 

昨年も行ったネヴァダ山脈のスキー場目指して行ってしまった。行く数日前に私たちのキャンプ場へ訪ねてきて、一緒に近くのレストランでお食事、大いに話が弾んだ。

来年のことは判らないがとお互い確約は出来ないながらも、再会を約束して別れた。

 

 

 

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これが最後のキャンプ旅行―晴天の郊外散策

2019-01-09 21:15:16 | ポルトガル18-19

 12月半ばからここポルトガルは天気が良くなり、1月になってからは晴天が続いている。今日1月9日は今年最高の温かい?暑い日で、風もなく、Tシャツ一枚で歩けるようになった。もう手遅れだけれど日焼けを恐れて,長袖のシャツも持って出かけたけれど、必要なかった。

 

 

11時から歩き始めてすぐ目に付いたのが、野生の水仙、もう水仙の咲く春になったのだと感銘。

 

 

 

この可愛い絵は住宅が散らばる通りにある、ごみ集積場の壁に描かれてあるもので、各絵にはビーズなどが貼られている。

 

もう使われていない貯水池なのか、それともこの日照りで乾いてしまったのか、巨大なそして立派な池が道端にあった。 

 

 

リーダーの牛は首にベルを付けていて カラコロ と鳴る。まるで人間を見たことないように通り過ぎるまでじっと見つめられてしまった。

 

 

 広大なビニールハウスが並んでいるところへやってきた。目隠しのためかグリーンの幕の向こうに常緑樹の苗も植えられていて、いったい何が植えられているのだろう。もしかしてマリワナかしらなどと思ったが、温室の開いているところを見れば、私の背丈よりも高いラウズベリーの苗がずらっと並んでいた。

本当は以前行ったことのある道を高速道路のトンネル迄と歩いたのに、いつからか全く道を間違え、遠くに見える白い町まで行こう。何しろ地図も持たず、あてずっぽうだったから。

初めて着いたサンタ・リタの町は小さくて、レストラン一軒もない。 今朝私がサーキットトレーニングをしている間に、亭主がサンドイッチを作りコーヒーをフラスコに入れて準備していてくれた。町のベンチで昼食。

 

 

 

 このサンタ・リタの町の周辺はアーモンドの花盛り。今年初めての花は、やっぱりポルトガルの早春なのだ。

 

サンタ・リタを過ぎてすぐ高速道路の上に架かる橋を渡った。この高速道路とほとんど平行に、森の中の道路が伸びていて、コンセイシャオへと道路標識があった。

 

 

 車も通れる立派な道路だけど舗装されていないから、車が通れば土ぼこりがひどい。幸い一台も通らなかった。

 

 

 

 道端のこの白い木はユーカリの木で、樹皮がむけてこんなきれいな木肌になるらしい。樹皮はからからに乾いて自然にはげ落ちてくる。

 

 

 

昨年まで何度も来たことのある高速道路の下のトンネルを通り、オレンジ畑の写真を撮って、遠くに数時間前通ったビニールハウスのグリーンの幕が見えた。

谷間を挟んで道路が平行に走っていたのだ。

 

 

昨年植えられたばかりのオレンジ畑には、小さい木ながらもオレンジがしっかりなっている。日本なら千枚田、ここポルトガルのオレンジ畑は階段畑。

 

 

オレンジもレモンも1月に入るとマーケットでも安くなってくる。これだけ生っていれば安くておいしいオレンジが買える。。来週オレンジ農家から10㎏を5ユーロで買ってこようと計画している。

 

 

コンセイシャオの町へ戻って、よそのお家の前庭に鮮やかに咲いていたハイビスカス。

今日は温かいポルトガルの早春を満喫した5時間だった。今日の歩行距離16Km

 

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ポルトガルで思うことー2019年1月1日

2019-01-01 15:59:10 | 思い出

今から72年前の今日、弟が生まれた。

私はその時2歳8か月、この日のことをよく覚えている。まだ戦後2年しか経っていないその頃は、日本中が貧しかった。

国民のほとんどが飢えていた。父は戦争から帰って警察官として復職し、家族皆で松任市の片隅の汚い長屋に住んでいた。

お正月のこの日、私は誰からも説明されもせず、家の前に放りだされた。

何もわからないまま、家の中から聞こえるのは母の叫び声で、怖くて怖くて泣いていた。

近所のおばちゃんたちが、忙しそうに我が家の玄関を出入りしている。

誰も私のいることを気にかけもしなかった。

どれほどそこに居たのかは覚えていないが、どこかのおばちゃんが彼女の家に連れて帰ってくれた。

 

これが私の一番初めの記憶、今でも鮮明にあの汚い長屋や2部屋だけの家に土間の暗い台所とその横の臭いトイレを覚えている。2歳年上の兄はその時何処へ行ったのかは知らない。父は当時敗戦で無事帰還したものの男たちがほとんど陥る無気力症だったらしい。後で聞いたところでは、酒浸りで家には弟のおむつを買うお金もなかったという。

父の母、私の祖母に当たる人は金沢に住んでいて、こんな我が息子を見て泣いていさめたそうな。

そのおばあさんは私が5-6歳のころに亡くなっていて、祖母の記憶はないものの、お葬式だけは覚えている。

その界隈で、ポンポン菓子と呼ぶお米を膨らませてお菓子にして売っていたお家があった。ご主人はペンキ屋さんで宣伝の看板などを描いていた。その家のおばあさんが産婆さんで、弟をとりあげてくれた。

そんな縁からこのおばあさんにとっては、弟は彼女の孫とも思われたらしい。私や兄がお菓子欲しさに行くと、すごく意地悪そうな目をした小さなおばあさんは、”何しに来た ” と怒ったけれど、弟が行くと相好を崩して喜び、お菓子の崩れたものなどいつも呉れて可愛がっていた。

金沢の祖母がたまに我が家に訪れても弟はなつかず、私の孫なのにと泣いたというから、孫の取り合い、年寄りばあさんが張り合っていたのかもしれぬ。その頃の弟はカーリーヘアーに目が大きくて、とっても可愛かった。

両親にとっても末っ子はかわいかったのだろう。私や兄が何か悪いことをしたら、父からこっぴどく叱られたものだ。食事中におしゃべりしたとか、こぼしたというだけでも、父の象牙の箸の太いところで頭を叩かれた。弟だと全然叱られない。それで、私も兄も何かを壊したりしたときは弟がやったことにした。

 

今考えてみると当時の教育や育児は幼児虐待と言ってもいいかもしれない。同じ兄弟でも両親の子供に対する取り扱いがあんなに違っていたから。ただ父に関しては、愛情の表現ができなかったというのが本当のことだったろうと思う。

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