Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

ヨルダン旅行ージェラシュ(ローマの遺跡)

2022-10-15 21:49:54 | ヨルダン旅行 1995年

1995年5月2週間のホリデーをとってふたりでヨルダンへのバックパック。

飛行機は英国航空で予約、乗ってみれば私とポールは座席も同じでなくてポールの横には多分80歳近くの英国女性。この女性とポールはお互い気が合って、二人で機内のフリードリンクで朝の3時に着くまで飲んでいた。

この女性はサガ(高級老人向けの旅行会社)の団体旅行者の一人で、真ん中後ろに座っていた私の隣二人の老婦人と同じグループだったらしい。

彼女たちポールとそのお婆さんが飲んで楽しく話しているのを見て、まー嫌ーね、あの人一緒に廻るのよ と言って眉をひそめていた。

とにかくアンマン郊外の飛行場に着いたのが朝の3時では、交通機関が無い。大体ホテルも何も予約していない。それで空港内の畳一枚くらいのベンチに二人で横になって仮眠。ポールは飲んで酔っているからすぐ寝てしまった。

翌朝バスでヨルダンの首都アンマンへ行き、ポールが安い宿を見つけてきて投宿。

荷物を置くとすぐに二人でツーリストインフォメーションセンターを探していろいろな旅行案内を貰ってきた。そしてバスでジェラシュ(Jerash)のローマ遺跡を見に行った。

 

巨大なアンプシアター、あちこち団体旅行者がいた。

90年初めからトルコのローマの遺跡巡りをしていたけれど、このジェラシュの遺跡の素晴らしい

こと。

遺跡の外はアンマンの町

 

 

初日はこの遺跡巡りで堪能した。

 

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ヨルダン旅行ー首都アンマン

2022-10-14 00:05:14 | ヨルダン旅行 1995年

ヨルダンは周囲の国から見ると小さくて首都のアンマンはびっしり建物が並んでいる。そしてやっぱりここもメインは回教徒の国だが、必ずしも国民全部が回教徒ではない。

と言うのは一日アンマンの町を散策するに、町はずれを歩いていたところ、学校の生徒たちの下校時間になった。少し英語のできる子供たちが周りを取り囲んで彼女の家へ来てくれという。本当に仕方なく連れていかれたお家が、そんなに立派な家ではなかったけれど、その家の主婦から家族皆が歓待してくれた。彼らはクリスチャンだと言っていた。一緒に写真を写して住所も聞いたのに、フィルムの装填がうまくいってなくて空回りしていたのに気づかなかった。

帰国してお礼と写真が送れなかった謝りの絵ハガキを送ったけれどいまだに残念だ。

 

町の中心広場には片側大きなアンプシアターがありこの上から町の込み入った様子が写真に写せる。

この広場にいつもいる物売りの男の子はイラクから来たという。学校も行かずに観光客相手に小物を売っているらしい。それで写真を写してあげたらとっても喜んでくれた。

ヨルダン人もすべてが貧しい人達ばかりではないが、エジプトやモロッコと違って物乞いが居ない。

トルコとヨルダンでは回教徒と言っても人から物を貰うという矜持が違う。この男の子も決して押し売りするわけでもなくそれでいてとってもフレンドリーだった。

 

この広場でヨルダン人のガイドと言うおじいさんに会って、彼は英語が話せたからおしゃべりし、写真まで撮らせてもらった。彼も決して自分を売り込まず、感じの良い人だった。

街角で座っている人たちは、手紙の代筆やで識字率の高くない住民の手紙を読み書きする商売。いろいろな仕事があるものだ。

ヨルダンの国王は英国人女性が第一婦人で、今現在(2022年)の国王は英国人とのハーフでオックスフォード大学出身。それでこの国は中東では一番西洋化しているが、シリア、イラク戦争で難民が多くてあえいでいる。私たちは一番良い時に旅行していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヨルダン旅行ー温泉滝 Hammah-in

2022-10-13 21:18:49 | ヨルダン旅行 1995年

首都アンマンからバスでイスラエル方面へ行ったところに素晴らしい温泉滝がある。(何時間かかったかを憶えていない。)

 

ここはイスラエルの Dead Sea(死海)の上流にあたり熱い温泉の湯が死海に流れ込んでいる。

前日インフォメーションセンターでもらった案内書で見たもので、ローカルのバス停へ行ってもわからず、とうとうタクシーで行った。

ここはひなびたローカルの住民の湯治場らしい。

 

上の写真3か所から42-45度くらいの熱い湯が吹き落ちてくる。その下には幅2メーター足らずの熱い川が流れている。

5月のヨルダンは日本の真夏くらいに暑く、落ちてくるお湯は42度くらい。その滝に行くまでは熱いお湯の流れる川を渡らなければならない。

 

ローカルの人達には外人のポールは珍しくすぐに囲まれておしゃべり。

これだけ濡れているなら岩や崖は滑りそうなものだが、ここの岩は全く滑り止めで、はだしでどこまでも登って行ける。

外気も暑いのにお湯も熱いから10分くらい毎に日影に入って涼まないと熱射病になる。

近くに有料の冷水プールがあってそこで体を冷やしてまた滝のお湯に打たれたり、小さなキオスクで水のボトルを買って一日中楽しんだ。

ローカルのお祖母さんの湯治場面。回教徒の女性は裸を見せないから、全身カバーしてお湯にあたっていた。

 

夕方ローカルのバスがアンマンへ帰っていくのを知ってそれに乗り、10日後英国への帰国前にも、もう一度ローカルバスで往復し2回目も丸一日を楽しんだ。今でももう一度行って見たいところだ。

 

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ヨルダン旅行ーアクバ (Aquba)

2022-10-12 23:47:37 | ヨルダン旅行 1995年

ヨルダンの人口の90パーセントは首都アンマンに集中している、この国のほとんどは砂漠であり、イスラエルの倍以上の国土を持っていても観光で見て回るところが少ない。

アンマンに着いた4日目に南の紅海に面したアクバへのバスに乗った。

この当時の日記など無いから時間にしてどれくらいかかったかなど覚えていない。ただ砂漠の道をひたすら南下したことしか記憶にない。

アクバの海岸通りに面した海はイスラエルと半分に仕切られている。そこで海岸はほとんどが巨大ホテルのプライベートビーチになっていて、簡単に水際へはいけない。

 

モダンなアンマンと比べ物にならないひなびた田舎町で、観光に行っても大して見るものがなかった。

 

火炎樹 南国にはなくてならない華やかな木。

 

この黄色のねむの木の様な花が素敵なかおりをただよわせている。

夜になると隣の国イスラエルの海辺の町イラットの明かりが輝いてかの国が発展しているのが良く分かる。

この夜泊まったホテルは13ポンド。テレビ、シャワー、トイレ、冷蔵庫、空調があってこの値段。バックパーカーにはぜいたくなホテルルームだった。

 

 

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ヨルダン旅行ーワデ・ラムとリトル・ペトラ

2022-10-11 22:07:48 | ヨルダン旅行 1995年

アクバの翌日またバスでペトラ(Petra)へ向かった。

 

 

ペトラへの道はこれも不毛地帯、砂漠地帯と言ってもサハラ砂漠のような砂丘ではなく、岩山と石原が永遠に続く。たまに見かける石か土で作られた家屋が見えるが、水もないこんなところでどうやって生活できるのだろうと不思議に思う。

これはワデ・ラムの絵ハガキでこのような砂漠地帯をラクダで廻る観光客。

 

この日の午後にはペトラの町に着いて、投宿したのがバックパッカー・ホテル。ほとんど若者たちでいっぱいだったが、中にオーストラリアから、独り身で家族がいないおじいさん、彼は家を売って人生の残りを旅で終わろうとしている。私51歳、ポール64歳、そしてオランダ人の独身女性。私とほとんど変わらないくらいの年代の人で、いつもどこでも一人旅だそうだ。

ペトラへの入場は有料だが、その近くのリトル・ペトラは誰も興味を示さず、監視人一人も居ない。

夕日が落ちるまで4人で出かけた。

 

赤っぽい岩山のあちこちが削られて、洞穴があり石の階段が作られている。

初めてみた私たちは全く感激物、こんな建物を作った民族とはいったいどんな人達だったのだろう?

 

こんな岩山を削って住んでいた民族。ローマ時代より以前だという。

 

 

 

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ヨルダン旅行ーペトラ1 (Petra)

2022-10-10 04:08:25 | ヨルダン旅行 1995年

今日は一応ペトラの歴史に触れておかねば,ここがいったい誰によって何を目的に作られたかが判らないだろう。

ペトラは紀元前312年、アラビア人ナバティアン族によってつくられた都市で,現在呼んでいるペトラとはロック(岩)の意味。オリジナルにはラクエモ(Raqemo)と呼ばれていた。

ここは紀元前1世紀から紀元後2世紀が最盛期の、ロイヤルや貴族の墓地として栄え、その数1000にも上るという。ここは紀元後363年に大地震に襲われ破壊されたうえ、人口過多で水の供給が難しくなり、自然に住人の移動によって世間から忘れられていった。ローカルのベドゥインだけがこの地を知っていた。

1812年スイスの旅行・探検家ヨハン・ルドヴィック・Burckharolt によって発見され、ヨーロッパに知れ渡るようになった。

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私達4人はまだバックパッカーの若者たちが目覚めないうちに、ペトラの入り口のチケット売り場へ急いだ。

 

写真は村はずれから、ペトラの岩の割れ目を見たところ。これだものもし飛行機で上空から遺跡を探したところでほとんど不可能だっただろう。

入場料は観光客用のチケットがローカルとは違ってやたらと高く、一日券が一人25ポンド、2日券が35ポンド(だったと思う。)で オーストラリアのおじいさんとオランダ人の女性は、前日2日券を買った夫婦者から15ポンドで譲り受け、いかにも夫婦者を装ってサッサと入って行った。

私達も二日券を求めてその夜若いカップルに一人15ポンドづつで売った。

 

 

入り口から遺跡が見えるまでの1KMは高い崖の間を歩いて行く。早朝で鳥の声ももちろん現代の交通機関の物音は全くしない。

そしてもうずいぶん歩いたと思って岩陰を曲がったところで、急に明るいこの素晴らしい遺跡が見える。

 

この素晴らしい創造物はトレジャリー(宝物殿)と呼ばれているが、実際に作られたのは紀元後1世紀のナバティアン族の王アレタス4世(Aretas )の墓で当時は死者と同時に葬られた宝物がたくさんあったであろう。それでローカルのベドゥインからトレジャリーと呼ばれていた。

中にはただ大きな部屋があるのみ、遺体や石棺も何もない。

このトレジャリーは以前写真では見ていたが、実際この目で見て、あまりのすばらしさに声も出なかった。できる事ならこれが作られた時代に戻って、どうやってこんな均整の取れた巨大な創造物が出来上がるのだろうか?見てみたいと心から思った。

上の写真はこのトレジャリーの入り口から崖の割れ目の通りを見たところ。

 

最後に19世紀このトレジャリーが発見されたころの写生画で荒れ果てた様子が良く分かる。

 

これは絵ハガキでトレジャリーのサイズも、人間を対比にしなければ実際の大きさが判らないだろう。そして日中の太陽の下この街がローズシティと呼ばれているのがうなずけるであろう。

 

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ヨルダン旅行ーペトラ2

2022-10-09 04:14:28 | ヨルダン旅行 1995年

さてモナストリーを通り過ぎて遺跡の宝庫へ入っていくと左手に山へ登っていく細道がある。連れの2人はさっさと登って行ったから、私も上るのにリュックが重い。何しろ1.5リッターの水のボトル2本と二人分のサンドイッチが入っていた。

この山は行き止まりでまた同じ所へ戻ってくるものと思って、リュックを道端において登った。山頂に着いてまた同じところに降りてこないと気付いたと同時に、水や食べ物だけでなく二人のパスポートと現金1000ポンドも入れていたことを思い出して真っ青!!!!

慌てふためいて坂道を駆け下りた。途中で登ってくる若者たちに、道端のリュックを見かけたかと聞いても誰も知らないという。

必死で走って着いたところに・・・・あった。さすがヨルダン、これがイギリスだったらすぐに消えて行ってただろう。

 

遺跡内にはこのようなかっこいい観光ポリスが歩き回っている。どんなスタイルでも制服というのはかっこいいと思ってしまうのは私だけか? 

迷路のようにあちこち登ったり下りたり、いたるところに穴が開いていてこれらが過去の墓地だとするといったい遺体や石棺はどこへ行ったものか不思議だった。

遺跡の広場の大通りにはローマの円柱が並んでいる。紀元後ローマ人がやってきてこの地を支配したものらしい。

 

 

大変フレンドリーな観光ポリスマン喜んで写真を撮らせてくれた。

 

あたり一面が見どころだからいったい自分がどこにいるのかが分からなくなってきそう。ここのまるで巨大な肉の塊りみたいな岩は砂岩で簡単に掘ったり削ったりができる。

 

雨など降りそうもないこの乾燥地帯でも、遺跡のあちこちにこのきれいな夾竹桃が咲いていた。

 

同行のオランダ人の女性やオーストラリアのおじいさんとも一日過ごしたのにお互い自己紹介をしなかったから名前を知らない。

ペトラの最奥にこれもまた巨大なモナストリーと呼ばれる建築物がある。入口の岩だけでも簡単にまたいで入れない。中はここも全く何もなくて巨大な空間になっている。

このモナストリーも周囲の岩をくり抜いて作られてあるから、その横に岩を削った階段がついていた。若者たちが屋根の上にいるのが見えて、お調子者のこの私も上っていった。

登ってみてあまりの高さにビビッて動けない。 やっとの思いで降りてきたが、この数年後に行った従姉妹は、ここは登頂禁止になっていたという。きっと誰かが落ちたに違いない。屋根は斜めにかしいでいて、そのふちに座っている若者たちがいた。

 

夕方帰るころにはポールはのどが渇いてつばも出ないと嘆いていた。

ペトラはユネスコ世界遺産に登録されている。

 

 

 

 

 

 

 

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ヨルダン旅行ー紅海 最終回

2022-10-08 20:28:07 | ヨルダン旅行 1995年

ペトラの翌日またバスでアクバへ向かった。

地図でご覧になったらお判りでしょうが、アクバの紅海に面している地域は非常に限られている。

アクバのメインストリートに面した海岸は観光ホテルの私有地で、水辺へも行けないが、サウジアラビアとの国境までの海岸線に、一般公開された海岸とロイヤル・ダイビングセンターがある。

このローカルの国民が無料で海水浴のできる海岸が、ひどい。

日陰が一つもなくてはだしで砂地を歩くと、やけどしそうに熱い。これが5月のヨルダン。そして海岸一面の汚れた紙おむつ、やっぱり砂漠の民には衛生観念などないのかとつくづく思った。

私たちが行ったこの日は、一人もローカルの人たちがいなかったけれど、水際にも打ち寄せられた紙おむつでうんざりし、二度と来たくないと思った。

それでサウジアラビアの国境に一番近いロイヤル・ダイビング・センターへタクシーで往復。5日間をここで泳ぎ遊んでいた。

 

ポールと英国人のインストラクター・アランがダイビングに行った。

この細長い海には一本も川が流れ込まないから海水はどこまでも透き通っている。

ダイビングから帰ってきたポールは二人で潜った20メータぐらいの海底で、上を見たらバラクーダーの群れがぐるぐる回って壮観だったという。

 

 

私はシュノーケルだけで毎日泳いでいた。ここのサンゴ礁で小いかが10匹ほど群れて遊んでいるのを見た。いかは瞬時に体色が変わる。黒になったり白くなったりサンゴ礁の色彩に順応しているらしい。

ホテル近くのレストランで食事をしたときに、出されたロケット(ルッコラ)の葉を1枚持って帰り、英語のできるホテルの男の子にこの種が欲しいと紙に書いてくれとお願いした。ロケットはその前年トルコのタベルナで出されたのが初めで、なんておいしいものだともう一皿追加して、私一人で食べた。1995年当時まだ英国でもロケットは珍しい野菜だった。

1週間に一度開かれるローカルの青空マーケットでこの紙を見せて種やさんから買った。1ポンドで100グラムくらいの種は此の後10年は裏庭で立派に成長して、毎日のお弁当にたくさん持っていき友達皆から喜ばれた。

同時にこのマーケットで買った6畳敷くらいのサイズの花ござもしっかり持って帰った。格安飛行機ではなかったからか、このござなどエキストラのお金も出さず持って帰って来れ、裏庭でパーティをするときにひろげている。 

思い出いっぱいのヨルダンももう一度も行くことはない。

 

 

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