昨夜パラリンピックの華麗な閉会式があった。オリンピックが始まる前まで、警備の不備や交通機関に働く組合のストなど腹の立つことばかりが続いて、不安とテロに対する恐れが反オリンピック開催をあおっていた。
それがどうだ。オリンピック開会式からパラリンピック閉会式までの英国メディアの熱狂振り、そしてそれに答えるように次々更新される世界記録や、オリンピック記録、開会、閉会の式典の素晴らしさなど英国に住んでいて良かった・・・と在英日本人ならほとんど感じたはず。今回ほど英国の底力を感じたことは無かった。
月曜日にもかかわらず、マンションハウスからバッキンガム宮殿まで、オリンピック、パラリンピックそしてその期間ボランティアとして活躍した人達のパレードが有った。ロンドン市内は総勢100万人の熱狂的な観客であふれた。
私もその中の一人、お昼にプラットフォームで電車を待っている時に、この夏一番見慣れたボランティアの制服を着た女性が隣に立っていた。いつもは知らない人に話しかけるほど勇気がない私だが、このときは嬉しくなって ”貴女もパレードへ行くの?”と聞いたところ ”残念ながら今から家へ帰るところ”
との返事。彼女は英国中央部リンカンシャーから今年の休暇を全部充ててブランティアに応募したと言う。
オリンピック、パラリンピックの期間中この駅近くの友達の家に寝泊りしてボランティア活動を続けた。ロンドン以外からの人達も多数いてホテルから通ったと言う話も聞いていたから、彼らの熱意には大いに心揺さぶられた。電車の中でもロンドンブリッジに着くまでの20分足らず、彼女は写真やボランティアのお礼にもらったと言う銀色メタルのバトンを見せてくれた。一生の思い出になると目を輝かせていたので写真を撮らせてもらい私のブログに乗せるからと断っておいた。
明日からまた仕事に戻らなければ・・・・と残念そうだったがGood Luck!!!と手を振ってロンドンブリッジで降りていった名前も知らない素敵な女性。
パレードは1時半開始、ちょうどオフイス街の昼食時だったからパレードを一目見ようと言う人々で歩道も道路もあふれている。1時すこし廻ったところでセントポール寺院の側面道路で友達と待ち合わせた。私たち二人ばあさんの体面をかなぐり捨てて、一段高い石段の後ろに立たせてもらい、カメラを構えて待ち受ける。
石段に陣取っていた年寄り夫婦は今朝9時半から待っていたと言う。セントポール寺院の側面テラスにセントポール神学校や小学校の生徒たちがつめかけユニオンジャックを振って大歓声。真向かいにテレビカメラが備えられていたからその熱気のすごいこと。
2時過ぎ先導の騎馬警官に続いて、ドラムの音と共に下の写真の飾りのようなものが通り過ぎた。観客でほとんど見えないから本当に何か判らなかったが、英国選手団の象徴ライオンで有ったらしい。
21台のオープンカーに750人のオリンピック、パラリンピック選手が乗って車はゆっくりと進んでゆく。そして彼らを迎える沿道の観客の熱狂振りがすごかった。一台目に乗っているはずの中・長距離ランナーのモー・ファラーは車の反対側にいてみることが出来なかったが、女子5種目で金メダルを取った美人のジェシカ・エニスとその横に座っているデビット・ウィアーの写真が撮れた。
次々に通り過ぎる選手たちの中にはテレビでよく見た有名選手がいて、もう名前が出てこない。”ほらほらあれあれ”で行ってしまう。ペキンオリンピックの自転車競技で金メダルを何個も取ってサーの称号を持つクリス・ホーイが行った。
今年18歳になって飛び込みで銅メダルを貰って大喜びのトム・デイリーは若い女性の憧れの的。”トム、結婚して”と書いたプラカードがあちこちに上がり、テレビのインタビューアーが”あんなにたくさん求婚されているんだよ” からかっていた。もう一枚の写真はトムが4年前ペキンオリンピックから帰った時のパレードで撮ったもの、まだ14歳で子供子供していたが4年で立派な若者になった。
私の一番のお気に入り、トライアスロンで金メダルを取ったアリスティア・ブラウンリーと銅メダルを取った弟のジョニー・ブラウンリー、万歳!!! 彼らの写真が写せた。この兄弟はハイドパークでの水泳、サイクリング、ランニングのタフで過酷なレースで優勝候補だったが、はじめから最後まではらはらしながらテレビに釘付けだった。弟のジョニーが泳ぎからサイクリングに移行するときに、30秒くらい早く出てしまってペナルティーに、ランニングの最、途中で30数秒止まらなければならなかった。
かろうじて3位入賞を果たしたもののそのまま倒れて起き上がれず医療班に世話になって、授賞式も遅らせたからずいぶん心配した。急激な運動から静止状態に入ると心臓に良くないことがよく判った。
21台のオープンカーが通り過ぎると今まで熱狂的に旗を振って叫んでいた群衆は急にいなくなってしまった。皆オフィイスの午後の仕事へ戻っていったのだろう。私も片道30分の電車で帰宅してすぐテレビを見たが、21台はまだトラファルガー広場へ着かない前だった。あーあー、トラファルガー広場へ行かなくて良かった。ものすごい人で身動きできない様子だった。
ザ・モールからバッキンガム宮殿は一般立ち入り禁止で、ここはボランティアの招待席だった。ロンドン市長ボリス・ジョンソンや首相デビット・キャメロンのスピーチの後、宮殿の上空に9機のレッドアローが赤、青、白の煙を残して飛び去った。さすが大英帝国だとまたまた感激 !!!!。
9月9日日曜日夜はパラリンピックの閉会式が行われる。その朝パラリンピックのハイライトであるマラソンが開催された。コースもオリンピックマラソンと全く同じでバッキンガム宮殿とシティーの間を3回走る26マイルのフルマラソン。オリンピックマラソンと違うのは視力障害者と上半身障害者のレースが朝8時から始まり、続いて車椅子マラソンが11時半から始まる。
オリンピックマラソンの日曜日にはキャノンストリート駅が開いていた。パラリンピック・マラソンでは駅も扱いが違ってキャノンストリート駅は閉鎖、私の駅の始発が7時43分、寒いプラットホームで53分も電車を待った。今日はなんと言う日だ!!!
あせりまくっていつもの私たちの応援場所へ行ってみればランナー先頭集団は1回目を行った後だった。道端に応援する人達もまばらで寂しいくらい。ところが今回も私たちの応援指定席に日本から高橋勇市君の応援団が来ていた。すぐに同化してしまう。
高橋君は東京のアイ・ティ・フロンティアの医務室に勤めるマッサージ師でこのマラソン出場を応援するため会社が14人の応援団をおくってきたとのこと。会社の直接収益につながらない職員の為に会社が全額負担で応援団を送ってきたなんて、なんて素晴らしい会社だろうとその話に感激した。
一人で走っていた岡村さんは4位完走、黒めがねで伴奏者付きの和田さんは5位に入った。
茶髪の高橋君が伴奏者と走ってくるのが見えると我が応援団の大声援、勇市ファイト、勇市ファイト がこだましていた。近くで見ていた少し日本語のわかるらしい英国人の若者が、横のガールフレンドに ”ユウイチはナンバーワンという意味なんだ” と言っている。
高橋君も7位で完走し、目が見えなくても2時間42分9秒と言う素晴らしい記録だった。見えなくても走れると言うのはすごい勇気が要るだろうなー。
全出場者22人の内完走者14人、そのうち日本人が3人も入っていたなんてすごい記録ではないか。さすがマラソン日本と嬉しくなった。
最終ランナーがバッキンガム宮殿へ向かっていった後、アイ・ティ・フロンティアの応援団も解散。その前に皆で記念写真など撮りあった。その頃には道路わきにも応援の人垣が出来、11時半の車椅子レースの準備完了。
パラリンピック車椅子マラソンの応援にイギリス人が集まってきたのは32歳の英国人デビット・ウエアーのため。彼はロンドンマラソン車椅子レースで6回も優勝しているし、今回のパラリンピックではスタジアム内の5000メータ、1500メーター、800メーターで金メダルを取っている。
車椅子レースは体を前方に倒したままで遠くを見ることが無いし、腕の力だけで進むのだからどんなに大変なことだろうか。英国には珍しいインディアンサマーと呼ばれる晴天になって走者も特に暑いだろう。英国民の期待通りデビット・ウエアーが4個目の金メダルを貰った。
この車イスマラソンでは32人の参加者の内28人が完走した。そして素晴らしいのは28人中に日本人が6人も出場していて4位、5位、6位、13位、21位、22位に入っているではないか。もしかして英国人の出場者より多かったかも知れない。みんな良くがんばってくれた。皆下を向いて走っているから顔は見えないけれど”日本がんばれ”の声援は聞こえただろう。
私たちの立っていた道路の向かいに救世軍の本部が建っている。素晴らしく立派な新しい建物で、近くで応援している私たちに紙コップに入れたお水を持ってきてくれたり、オリンピックのバッジなどくれた。子供たちにはフェイスペイントのサービスも有ったらしく応援している男の子の顔が救世軍のロゴだった。すごい宣伝!!!
パラリンピック開催と同時にタワーブリッジの上にパラリンピックのシンボルが飾られた。これもこの夜で終わる。明日から楽しみが無くなってしまう。
毎日パラリンピックの競技をテレビで見ていて一度でいいから競技場で雰囲気を味わいたいものだ。そして夜中の一時過ぎインターネットをいじくりまわして、とうとうエクセルでのボッチャ(Boccia)のチケットが手に入った。それもたったの5ポンド!!!
ボッチャなんて一体何かわからないけど玉ころがしのようなものらしい、まーいいか 全然期待しないで木曜日の早朝テームス河のO2の対岸にあるエクセルへ向かった。エクセルは2000年に建設された広大な建物で、エクスビッションやコンファランス目的で建設された。今回のパラリンピックの間中この中ではボッチャ、シッティング・ヴァレーボール、卓球、車椅子フェンシングが競技された。
ドックランド・ライト・レールウエー(DLR)を降りるとエクセルまでの道筋にはこのオリンピック・パラリンピックで一番良くがんばってくれたボランティアーの若者たちがズラーとならんでエクセルはこちらと案内してくれる。中にはラップで歌いながら”エクセルはこっち さあみんな楽しんで” なんて皆ニコニコしながら入り口へ向かった。
会場入り口で、ボッチャのチケットでも内部で行われる競技は、どれでも見られることが判って大喜び。朝9時からシッティング・ヴァレーボールは女子英国と日本の対戦という。エクセル・デイパスのチケットでは座席は指定されていないからどこでも良いといわれシッティング・ヴァレーボール会場は英国選手が出場となるとアットいう間に座席が埋まった。
選手入場はほとんどが車椅子だった。片足や両足のない人達がほとんどだが皆元気いっぱい。座っていてもアタックはするどい。事故や生まれつきの障害で足がない人達なのだろうが、英国選手の中に両脚切断のマーティン・ライトと言う39歳の選手がいる。彼女はロンドンで2005年7月7日4人のイスラムテロリストによって52人の死者と多くの障害者を出した英国最大のテロリストアタックで両足を吹き飛ばされた。そんな不幸にもめげずこの競技に出場できたことでテレビや新聞で何度も報道されたすごくタフな女性だ。
会場のあちこちに日の丸が見られて、熱心な応援団が来ている。日の丸を持ってこなかったのが残念でならない。でも周りが英国人で埋まっている応援席でかまわず大声で日本に声援を送った。
シティング・ヴァレーボールは6人制でたびたび選手が入れ替わる。英国選手が得点するたびの会場は日本側の20倍ほどの大喝采、それでも日本が3対0で圧倒的に勝った。
すっかりいい気持ちになって卓球会場へむかった。広大な会場は車椅子卓球が狭い囲いのコートで、足が悪くても自力で動ける人達は広い囲いの中で競技する。全部で8コートあっていろいろな国が対戦していた。中に車椅子の英国女性が車椅子トルコ女性と競技していて会場全部の英国応援団が英国得点のたびに拍手喝采。なんだか他の7コートの選手たちが気の毒になった。ここの卓球場は気が散っていけない。
午後にボッチャの競技場を覗いてボッチャはローンボーリングによく似ているのが判った。選手はやっと立ってソフトボール大の玉が投げられる人から重度障害で話すことも出来ない人まで4段階に分かれていてほとんど動きがない。20分ほど見ていたけれど飽きて出て来てしまった。ボッチャなどといっても誰も知らないからこんな私でもチケットが買えた。オリンピックパークのチケットはどれだけがんばっても手に入らなかった。
ボッチャなど写真を見て説明すればすこしは判るだろうけど、折角300枚以上も写した写真を誤って消してしまった。永久に消えてしまったものでは泣いても泣き切れない。このコラムは私の思い出の為に書き込んだものです。